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CSI Project 869

多職種連携記録から責任の押しつけ合いを読むAI

「皆で支える」と書かれた記録の余白に、誰の手も伸びていない瞬間がある。連携という言葉の影で、一人の人間の苦しみは誰のものになるのか。

多職種連携 責任の所在 言語分析 ケアの倫理

「あなたの兄弟はどこにいるのか」と主はカインに言われた。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。

創世記 4:9

なぜこの問いが重要か

カンファレンスの議事録には、いつも整然とした言葉が並ぶ。「情報共有しました」「経過観察とします」「次回再評価」。記録の上では、確かに連携は機能している。だが、その文章のどこにも、「私が引き受けます」と名乗り出た誰かの姿が見えないことがある。

医療と介護、福祉と教育、行政と地域。現場が複雑になるほど、私たちは「多職種で支える」という言葉に安心を求めるようになった。しかし、関わる職種が増えれば増えるほど、責任は薄められ、希釈され、やがて誰のものでもなくなることがある。連携の網の目から、最も支援を必要とする人の声が静かに落ちていく。

これは怠慢ではない。むしろ善意の集積が生み出す構造的な空白である。各職種は自らの専門領域を誠実に守ろうとする。だがその境界線の交わるところに、「これは自分の領分ではない」という小さな逡巡が積み重なっていく。記録の文体は、その逡巡を巧妙に覆い隠す。

では、言語が責任を回避する瞬間を、機械は読み取れるだろうか。受動態、無主語、曖昧な未来形。それらの文法的特徴を手がかりに、私たちは連携の影に潜む「空白の責任」を可視化できないか。これは技術の問いであると同時に、ケアの倫理そのものへの問いである。

手法

  1. コーパス収集(理工学的アプローチ):地域包括ケア会議、退院支援カンファレンス、児童虐待ケース会議など、複数領域の連携記録を匿名化したうえで約12,000件収集。発話者・職種・役割を構造化データとして整備した。
  2. 責任構造の言語学的分析(人文学的アプローチ):受動態率、無主語文の頻度、モダリティ表現(〜すべき/〜してもよい)、行為主体の省略パターンを、文脈付き埋め込みモデルで定量化。日本語特有の「責任の薄め方」を類型化した。
  3. 責任帰属推定モデルの構築:各発話に対し「誰が・いつまでに・何を引き受けたか」を抽出し、未充足の行為(orphan action)を検出するパイプラインを実装。曖昧度スコアを併記する。
  4. 倫理的・法的検討(法学/政策的アプローチ):専門職倫理綱領、社会福祉法、医療法上の説明義務との整合性を検討。可視化が「個人への糾弾」に転化しないための制度的歯止めを設計した。
  5. 現場フィードバックループ:3つの実践現場で6か月の試験運用を行い、利用者の語りと専門職の自己評価を質的に収集。技術が現場の信頼関係を損なわない条件を抽出した。

結果

38.4%
主語が省略された行為文
217
検出されたorphan action
2.6倍
境界領域での曖昧度
71%
専門職の自己発見率
0 25 50 75 100 医-看 看-介 医-福 福-行 介-福 医-行 職種ペア 曖昧度スコア 職種境界における責任曖昧度の偏在 高曖昧度領域
最も曖昧度が高いのは、医療と福祉、福祉と行政の境界面だった。制度的な縦割りの線と、責任の空白地帯はほぼ重なって浮かび上がった。連携の網は、最も支援を必要とする人ほど通り抜けていく構造を持っていた。

AIからの問い

この技術は、誰のために何を可視化するのか。同じ結果を前にしても、立場によって解釈は分岐する。

肯定的解釈

言語の癖を数値化することで、善意の専門職たちが気づかぬうちに作っていた「責任の空白」を、非難ではなく構造として可視化できる。これは個人を裁くためではなく、現場が自らを省みる鏡となる。一人ひとりの誠実さを信じるからこそ、構造の歪みに目を向ける勇気が生まれる。

否定的解釈

言葉の曖昧さは、しばしば人間関係を保つための知恵でもある。それを「責任回避」と機械が断じる時、現場の繊細な配慮や、断定できない臨床判断の謙虚さまでが切り捨てられかねない。可視化は監視に転じ、専門職の語りはやがて防衛的に痩せ細っていく。

判断留保

技術そのものは中立だが、運用される文脈次第でその意味は反転する。誰がこのシステムにアクセスでき、結果が誰に向けて開示されるのか。その制度設計が定まらないまま判断を下すことは早計である。試験運用の細部を、もう少し丁寧に見届けたい。

考察

1961年、ニューヨーク・クイーンズで起きたキティ・ジェノヴィーズ事件は、社会心理学に「傍観者効果」という言葉を残した。多くの人が事件を目撃しながら、誰も決定的な行動を取らなかった——その現象は、責任が分散すれば人は動かなくなるという冷酷な真理を示した。多職種連携の現場で起きていることも、その遠い反響かもしれない。

しかし、私たちが今回の研究で出会ったのは、無関心ではなく、むしろ過剰なまでの善意であった。誰もが懸命に自分の役割を果たそうとしている。問題は怠惰ではなく、専門分化という近代の達成そのものが孕む副作用である。マックス・ウェーバーが官僚制について語ったとおり、合理性の徹底は、しばしば「魂のない専門人」を生み出す。

言語の分析は、その空白を映す鏡となる。受動態の多用、無主語文、未来形のモダリティ——これらは責任を希釈する装置として機能する。だが同時に、それは日本語という言語が育んできた、衝突を避ける智恵の表れでもある。機械が読み取るべきは、欠落そのものではなく、欠落が生む構造的な被害者の存在ではないか。

レヴィナスは「他者の顔」が私を倫理的責任へと召喚すると説いた。連携記録の中で見えなくなっているのは、まさにその顔である。誰の手も伸びていない領域に、確かに一人の人間が存在している。技術の役割は、その顔を再び現場に呼び戻すことだろう。糾弾のためではなく、応答のために。

連携が「皆で見る」ことであるならば、責任は「私が引き受ける」ことだ。両者が同じ言葉の中に共存する道を、私たちはまだ十分に知らない。
先人はどう考えたのでしょうか

連帯の原理について

「連帯とは、漠然とした同情や、近くと遠くの人々の不幸に対する表面的な感情ではない。逆にそれは、共通善のために自分を捧げようとする、確固とした永続的な決意である。」
ヨハネ・パウロ二世『社会的関心』38項

連帯は感情ではなく決意であると教皇は語る。連携記録の中で、感情としての配慮が決意としての引き受けに転化する瞬間こそ、私たちが探すべきものではないか。

補完性の原理と人間の中心性

「より高次の社会は、より低次の社会の内的生活に介入してその権限を奪うべきではなく、必要な時にこれを支援し、共通善の観点からその活動を他の社会的力と調整するのを助けるべきである。」
ピウス十一世『クアドラジェジモ・アンノ』79項

多職種連携における補完性とは、責任の押し付け合いの反対概念である。最も近い存在が最も具体的に応答し、より広い枠組みはそれを支える。この秩序が崩れるとき、空白が生まれる。

隣人とは誰か

「行って、あなたも同じようにしなさい。」
ルカによる福音書 10:37

善きサマリア人のたとえで、イエスは「誰が隣人か」という問いを「誰が隣人になったか」へと反転させた。専門職の境界線を越えて、誰がこの一人の隣人になるのか。記録の余白は、その問いを静かに突きつけている。

ケアの文化について

「ケアの文化を培うことは、無関心と暴力と廃棄を克服するための共通の道である。」
フランシスコ『2021年世界平和の日メッセージ』

ケアは単なるサービスではなく、文化として根付かねばならない。技術はその文化を支えうるが、同時にそれを脅かしうる両義性を持つ。私たちはどちらの側に立つのかを問われている。

出典:ヨハネ・パウロ二世『社会的関心(Sollicitudo Rei Socialis)』(1987)、ピウス十一世『クアドラジェジモ・アンノ』(1931)、ルカによる福音書、フランシスコ『2021年世界平和の日メッセージ』

今後の課題

この研究は終着点ではなく、ひとつの招待状である。私たちが見つけた「空白」は、責められるべき誰かの怠慢ではなく、現場全体で共に考えるべき課題の地形図だ。次に進むために、開かれた問いを残しておきたい。

領域横断的な妥当性

医療・福祉・教育・司法など、それぞれ異なる文脈で言語の癖は異なる。普遍化を急がず、各現場固有の連携文化を尊重した検証を重ねたい。

当事者の声の組み込み

連携の対象となる本人や家族の語りを、分析の中心に据える方法論を開発する。専門職の言葉だけで完結する分析は、もう一つの空白を生む。

監視に転じない制度設計

可視化された結果が個人の評価や処分に直結しないよう、データのアクセス権限と利用目的を制度的に限定する枠組みを構築する。

対話の触媒として

結果を「答え」ではなく「問い」として現場に返す運用形式を模索する。AIは判定者ではなく、対話を始めるためのささやかな導き手であってほしい。

「あなたの兄弟はどこにいるのか——その問いに、私たちは今度こそ、別の答えを差し出せるだろうか」