なぜこの問いが重要か
2026年現在、世界にはなお約12,000発の核弾頭が存在する。広島・長崎から80年が経過し、被爆者の高齢化が進む中、核兵器の非人道性を「体験として知る」世代は急速に減少している。一方で、国際的な核軍縮の枠組みは停滞し、むしろ核保有国間の緊張は高まっている。核兵器の廃絶は「理想論」として片付けられがちだが、人類の存続に関わる最も現実的な課題でもある。
核抑止論——「相互確証破壊(MAD)による平和」——は冷戦以来の安全保障の支配的なパラダイムだが、その前提は「合理的な意思決定者」の存在であり、誤認・偶発・システム障害・非国家主体のリスクを十分に組み込んでいない。過去には核戦争の一歩手前まで至った事案が少なくとも20件以上確認されている。抑止が「成功」してきたのは、論理的必然ではなく、確率的な幸運に過ぎなかった可能性がある。
本プロジェクトは、核抑止をゲーム理論の枠組みで厳密に再検証し、軍縮に向けた実務的障壁(検証・信頼醸成・安全保障の代替手段)を整理した上で、段階的な核廃絶への複数のシナリオを生成する。抽象的なスローガンではなく、各段階で必要な具体的条件と行動を示す「ロードマップ」を目指す。
カトリック教会は核兵器の使用のみならず保有そのものを道徳的に否定するに至っている。この倫理的立場と、ゲーム理論が示す戦略的現実のあいだに、実行可能な道筋は存在するのか。理工学(数理モデル)、人文学(平和倫理)、法学・政策学(国際法と軍縮条約)の3つの視座から問う。
手法
核軍縮の実現可能性を、理論と実務の両面から体系的に検討する。
1. ゲーム理論による核抑止モデルの構築: 古典的な囚人のジレンマとチキンゲームを核保有国間の戦略的相互作用に適用し、2国間・多国間の均衡解を分析する。通常の完全情報ゲームに加え、不完全情報・繰り返しゲーム・進化ゲーム理論を用いて、合理的行為者が軍縮へ移行しうる条件を理論的に導出する。
2. 歴史的軍縮事例のデータベース構築: INF条約(1987年)、START I/II/New START、核兵器禁止条約(TPNW, 2021年発効)、南アフリカの核放棄(1989年)、ウクライナ・カザフスタン・ベラルーシの非核化など、成功・失敗・部分的成功の事例を網羅的にデータベース化し、成否を分けた要因を抽出する。
3. 障壁の多元的分析: 核廃絶への障壁を「技術的」(検証の困難さ、核物質管理)、「政治的」(同盟体制、国内政治)、「軍事的」(通常戦力の非対称性)、「心理的」(安全保障のアイデンティティ)の4次元で整理し、各障壁の相互依存関係をネットワークとして可視化する。
4. シナリオ・プランニング: 障壁分析とゲーム理論の知見を統合し、段階的核廃絶の複数シナリオ(漸進的条約拡大、技術的検証能力確立先行、地域安全保障枠組み構築、核保有国の内発的転換)を生成する。各シナリオに必要条件・推定時間軸・主要リスクを付与する。
5. ナッシュ均衡からの脱出条件の探索: 核保有が「ナッシュ均衡」に陥っている構造を明確にした上で、繰り返しゲームにおけるトリガー戦略や、制度的コミットメント装置(検証メカニズム・安全保障の代替供給)によって均衡を移動させる条件をシミュレーションする。
結果
ゲーム理論モデルのシミュレーションと歴史的事例分析から、核軍縮の条件と障壁の構造が定量的に浮き彫りになった。
ゲーム理論モデルの分析結果は、核保有の現状が「安定的均衡」ではなく「準安定的均衡」——小さな撹乱で崩壊しうる状態——であることを示した。均衡安定度0.67は、偶発的エスカレーションのリスクが無視できない水準である。歴史的事例の分析からは、軍縮が成功した全てのケースにおいて「検証メカニズムの事前構築」と「安全保障の代替供給」が不可欠であったことが確認された。最も実現可能性の高い4段階シナリオでは、第1段階(透明性確立)の政治的障壁が最も高く、ここを突破できるかが全体の成否を分ける。逆に言えば、技術的障壁は比較的低く、「やり方がわからない」のではなく「やる意思が形成されない」ことが核軍縮最大の困難である。
AIからの問い
核抑止と核廃絶をめぐる3つの立場。
肯定的解釈(廃絶は可能かつ必要)
核兵器の存在そのものが人類への脅威であり、その廃絶は道義的にも戦略的にも必要不可欠である。ゲーム理論は「均衡の変更は不可能」とは言っていない。むしろ、繰り返しゲームにおけるトリガー戦略や制度的コミットメントが均衡を移動させうることを示している。南アフリカの核放棄は「自発的な核廃絶は空想ではない」ことの歴史的証拠であり、化学兵器禁止条約の成功は「大量破壊兵器の全廃は可能」という先例を提供している。必要なのは政治的意思であり、それは市民社会と被爆者の声に支えられて形成される。
否定的解釈(廃絶は非現実的で危険)
核抑止は冷戦期に大国間の全面戦争を防いだ実績がある。不完全な均衡であっても、それを崩すことのリスクは維持するリスクより大きい可能性がある。核廃絶は「知識の廃絶」を伴わない——核兵器の製造方法は永久に消えない——以上、全廃後の世界では再武装への誘因が常に存在する。不完全な検証の下での段階的軍縮は、先に削減した国を不利にする「チキンゲームの変形」に陥る。さらに、通常戦力の非対称が拡大し、かえって紛争の閾値を下げるリスクもある。
判断留保(段階的アプローチの追求)
「完全廃絶か現状維持か」の二項対立自体が非生産的ではないか。核兵器のリスクを低減する実務的なステップ——先制不使用宣言、警戒態勢の解除、戦術核の削減、検証技術の開発——は、廃絶の是非について合意できなくても着手できる。各ステップの成功が信頼を醸成し、次のステップへの政治的空間を生む。ゲーム理論が示すのも、一回限りの「大転換」ではなく、繰り返しの中で協力が育つメカニズムである。目的地は見えなくとも、「正しい方向への一歩」を積み重ねる現実主義が求められる。
考察
本プロジェクトの分析は、核軍縮の最大の障壁が技術的困難ではなく「政治的意思の不在」であることを浮き彫りにした。
ゲーム理論の観点から見ると、核保有国間の現状は「協力すれば全員が利益を得るが、誰も最初に動きたくない」という典型的な集合行為問題である。しかし、このゲームは一回限りではなく繰り返される。繰り返しゲームにおいては、互恵的な戦略(例えばTit-for-Tat)が協力を生みうることは理論的にも実験的にも確認されている。問題は、核の領域では「一回の裏切り」が取り返しのつかない結果をもたらすため、通常の繰り返しゲームよりもはるかに高い信頼が必要であるという点にある。
歴史的事例が示す興味深いパターンは、核軍縮が「外圧」よりも「内発的転換」によって成功してきたことである。南アフリカの核放棄は体制転換と連動し、旧ソ連諸国の非核化も国内政治のダイナミクスに駆動された。INF条約の締結も、米ソ双方の国内政治的事情が重要な要因であった。これは「外から圧力をかけて軍縮を強いる」モデルの限界と、「内側から変わる」モデルの可能性を同時に示している。
4段階ロードマップの第1段階——核兵器に関する透明性の確立——が最も政治的障壁が高いことは逆説的であるが重要である。核保有国は自国の核戦力の詳細を最高機密として扱っており、「何を持っているかを明かす」こと自体が安全保障上の譲歩と見なされる。しかし、検証なき軍縮は信頼を生まず、信頼なき軍縮は持続しない。透明性は軍縮の「前提条件」であり、ここを迂回する道はない。
カトリック教会は2017年の核兵器禁止条約交渉に聖座として参加し、核兵器の保有を含む全面的禁止を支持した。これは「核抑止は過渡的に容認される」とした冷戦期の立場からの明確な転換であり、倫理的議論において重要な一歩である。しかし、倫理的な当為と政治的な現実のあいだの溝をどう埋めるかが、本プロジェクトが取り組む核心的な問題である。
核抑止が「確率的な幸運」に支えられた不安定な均衡であるならば、私たちは「いつか運が尽きる」リスクと「均衡を崩すことで生じる」リスクのどちらを選ぶのか。ゲーム理論はこの選択の構造を明確にするが、選択そのものは——個々の人間の尊厳と未来世代への責任に基づいて——人間が下さなければならない。「核なき世界」が技術的に可能であるならば、それを実現しないことの道徳的責任は、私たちの世代にある。
先人はどう考えたのでしょうか
核兵器と人類の良心
「この恐るべき兵器を持つすべての国の政府首脳に要請する。……戦争はもはや理性の道具とはなりえない。核兵器の開発を止め、軍縮に向けた誠実な交渉を始めよ」 — 教皇ヨハネ二十三世 回勅『パーチェム・イン・テリス(Pacem in Terris)』112項(1963年)
キューバ危機の翌年に発表されたこの回勅は、核時代における平和の追求を教会の最重要課題と位置づけた。ヨハネ二十三世は、核兵器が戦争の手段としての合理性を完全に失わせたと宣言し、軍縮交渉への転換を明確に求めた。この呼びかけは60年以上経った今も、その緊急性を失っていない。
現代世界における軍備競争の否定
「軍備競争は平和への最も確かな道ではない。……軍備のための莫大な支出は、人類の現実の問題を解決するために用いられるべきものを、軍事目的に転用している」 — 第二バチカン公会議『現代世界憲章(Gaudium et Spes)』81項(1965年)
公会議は、軍備競争が平和を保障するどころか、貧困や飢餓という「現実の問題」から資源を奪っていると指摘した。核保有国の年間核兵器維持費は推定1,000億ドルを超え、この指摘は現在もなお——あるいは一層——妥当性を増している。
核兵器の保有そのものへの明確な否定
「核兵器が存在する限り……核兵器から自由な世界を実現することは、すべての国と人々にとって最高の目標であり、こうした兵器の使用はもちろん、その保有も道徳的に許容されるものではありません」 — 教皇フランシスコ 長崎での演説(2019年11月24日)
フランシスコ教皇は被爆地で、冷戦期に容認されていた核抑止のための保有をも明確に否定した。これは「抑止のための保有は暫定的に容認される」としたヨハネ・パウロ二世時代の立場を超える転換であり、核兵器に関する教会の教導の到達点を示している。
平和の構築と正義
「平和は戦争の不在ではない。それは正義から生まれるものであり……不断の努力によって構築されるべきものである」 — 第二バチカン公会議『現代世界憲章(Gaudium et Spes)』78項(1965年)
核抑止による「恐怖の均衡」は、公会議の定義する「平和」には当たらない。真の平和は正義に基づき、積極的に構築されるものである。核廃絶への取り組みは、この「積極的平和」の具体的な実践として位置づけられる。
出典:ヨハネ二十三世 回勅『パーチェム・イン・テリス』112項(1963年)/第二バチカン公会議『現代世界憲章(Gaudium et Spes)』78項・81項(1965年)/フランシスコ教皇 長崎演説(2019年11月24日)/教皇庁正義と平和評議会『教会の社会教説綱要』508項
今後の課題
核廃絶への道は長く険しいものですが、それを探究すること自体が平和構築の一部です。ここから先に広がる研究の地平を描きます。
多国間ゲーム理論モデルの精緻化
2国間モデルを9カ国の核保有国すべてを含む多国間モデルに拡張し、同盟構造・拡大抑止・核共有の影響をシミュレーションに組み込む。
検証技術の技術的評価
核弾頭の存在確認・解体検証に関する最新技術(放射線計測、暗号化情報バリア等)の実効性を評価し、技術的障壁の克服可能性を定量化する。
被爆者証言のデジタル保存と分析
被爆者の証言アーカイブを自然言語処理で体系的に分析し、「核兵器の非人道性」を次世代に伝えるための新たなナラティブ構築に活用する。
市民社会と政策立案者の対話設計
ロードマップの各段階について、市民・研究者・外交官・軍事専門家が共通の言語で対話できるシミュレーション・プラットフォームを設計する。
「核なき世界は、まだ見ぬ理想ではなく、一歩ずつ近づくべき現実である。」