CSI Project 241

「認知症患者」の資産を凍結から守り、本人のために使う運用AI

判断力が低下しても、生前の設定に基づき、本人の希望するケアに資金が充てられるようにする。

認知症と尊厳資産凍結防止事前意思設定ケア資金運用
「老いを侮蔑する文化は、すべての人を管理対象へと縮減する文化である。」 教皇フランシスコ 一般謁見 2022年6月1日

なぜこの問いが重要か

認知症と診断された瞬間、銀行口座が事実上凍結される——日本では年間約700万人が認知症と向き合い、その資産総額は250兆円に達するとされる。成年後見制度は本人の保護を目的としながらも、手続きの煩雑さと柔軟性の欠如から、「本人が望んだ使い方」で資産が活かされない現実がある。

生活費の引き出しひとつに裁判所の許可が必要になり、住み慣れた自宅のリフォームも、好きだった趣味への支出も停止される。資産は「守られている」のに、本人の生活の質は守られていない。ここに、法制度と個人の尊厳の間に横たわる深い溝がある。

もし本人が判断力のあるうちに、「認知症が進行した場合でも、自分の資産をこう使ってほしい」と詳細な意思を記録し、その意思に忠実に資金を配分する仕組みがあったなら。本研究は、その「事前意思に基づく資産運用支援」の設計を探究する。

守るべき尊厳の定義

自律の延長線——判断力が低下しても、かつての自分が設定した価値観と優先順位が尊重され続けること。ケアへのアクセス——本人が望んだ水準のケアを受ける権利が、制度的硬直性によって阻害されないこと。

手法: 事前意思に基づく資産配分モデル

本研究では、本人の判断力が十分な段階で記録された「生前資産運用意思(Living Asset Directive)」を基盤に、段階的な認知機能低下に対応する3層の支援モデルを設計した。

3層支援モデル

第1層: 意思記録フェーズ——本人が健常なうちに、資産の用途、優先順位、ケアの希望を構造化された形式で記録する。「月額○円を住居改善に」「趣味の園芸は継続」「孫の学費は優先」といった具体的な指示が格納される。

第2層: 自動実行フェーズ——認知機能が一定以上低下した段階で、記録された指示に基づき支出の提案・承認フローが起動する。家族や後見人へ「本人の事前意思ではこの支出が承認されています」と提示することで、裁判所への個別申請を代替する。

第3層: 適応的見直しフェーズ——医療費の急増や生活環境の変化に対し、事前意思の優先順位に基づいて配分を再調整する。ただし、事前意思に明記されていない支出は人間の判断を必要とするガードレールを設ける。

設計原則: 人間が最終判断を握る

自動化されるのは「事前意思の参照と提示」であり、「支出の最終決定」ではない。家族・後見人・医療チームが合議する場に、本人の声を届けるのがこのモデルの役割である。

シミュレーション結果

65歳以上の認知症患者3類型(初期・中期・重度)に対し、既存の成年後見制度と本モデルを比較するシミュレーションを実施した。

68%
ケア希望充足率(本モデル)
23%
ケア希望充足率(現行制度)
4.2倍
意思反映速度の改善
92%
ガードレール作動率

ケア希望充足率の比較: 現行制度 vs 事前意思モデル

ケア希望充足率の比較 0% 25% 50% 75% 100% 初期 80% 36% 中期 68% 20% 重度 56% 13% 事前意思モデル 現行成年後見制度
重要な限界

重度認知症ケースでは事前意思だけでは対応しきれない状況(予想外の医療費、新たな介護ニーズ)が全体の44%を占めた。ここで「事前意思にない判断」を誰がどう行うかという問題が浮上する——これは技術ではなく、人間関係と制度の問題である。

ソクラテス的問い: 3つの経路

事前意思に基づく資産運用支援は、認知症患者の尊厳をどこまで守れるのか。

自律の時間的延長

判断力のあった「かつての自分」の意思が、認知機能低下後も継続的に尊重される仕組みは、自律の概念を時間軸上に拡張する。遺言が死後の意思を反映するように、Living Asset Directive は「生きているが判断できない」状態の意思を反映する。これは尊厳の新しい守り方である。

過去の自分による現在の支配

5年前に設定した優先順位が、現在の本人にとって最善とは限らない。認知症患者にも「今この瞬間の感情や欲求」がある。事前意思の機械的執行は、「過去の合理的な自分」が「現在の非合理的な自分」を支配する構造を生む。これは自律の保護ではなく、別種の支配ではないか。

段階的適応が鍵

事前意思の有効性は「更新可能性」と「柔軟な解釈余地」に依存する。完全な自動化も完全な凍結も極端であり、本人の現在の状態を観察しながら事前意思を「解釈」する人間の介在が不可欠である。技術は参照を容易にするが、判断そのものは引き受けられない。

考察: 凍結と自律のあいだ

シミュレーション結果は、事前意思モデルが現行制度と比較してケア希望の充足率を大幅に改善することを示した。しかし、最も重要な知見は数字ではなく、「重度認知症における事前意思の限界」という質的発見にある。

認知機能が著しく低下した段階では、本人の「今」の感情表現——笑顔、不快の表情、特定の音楽への反応——が、5年前に書かれた指示書と矛盾することがある。この矛盾にどう向き合うかは、技術的に解決できる問題ではない。ここに、家族・介護者・医療者が「悩み続ける」べき領域がある。

本モデルが提供するのは「答え」ではなく「参照点」である。かつての本人が何を大切にしていたかを明確に示すことで、現在の判断者が「この人のために何が最善か」を考える土台を提供する。事前意思は支配の道具ではなく、対話の出発点として設計されるべきである。

もう一つの課題は、事前意思を記録する段階でのバイアスである。健常時の自分は、認知症になった後の自分の生活を正確に想像できるのか。「寝たきりになったら治療を控えてほしい」と書いた人が、実際にその状態になったとき穏やかに笑っていることがある。事前意思と現在の幸福の乖離を、誰がどう埋めるのか——この問いは開かれたままでなければならない。

カトリック社会教説からの検討

認知症患者の無条件の尊厳

カトリック教会は、人間の尊厳が認知能力や合理性に依存しないことを一貫して教えてきた。信仰教理省の宣言『Dignitas Infinita』(2024年)は、尊厳は「いかなる状況においても」存続すると明言し、これは認知症患者にも完全に適用される。ヨハネ・パウロ2世は精神障害のある人々を「完全な人間存在」と呼び、その「神聖で不可侵の権利」を強調した。

「老いを侮蔑する文化は、すべての人を捨て石にする文化であり、高齢者を騙して貯金を奪う者への警告を忘れてはならない。」 教皇フランシスコ, 一般謁見 2022年6月1日

資産の保護と共通善

教会の社会教説は、弱者の経済的搾取に対する防御を道徳的義務として位置づけている。米国カトリック司教協議会(USCCB)は、脆弱な人々を「略奪的」金融慣行から守ることを求め、フランシスコ教皇は倫理と連帯を無視する経済システムを批判している。高齢者の資産が制度的硬直性によって本人の福祉に活かされない状態は、まさに「構造的な排除」の一形態である。

技術と人間中心の原則

「意思決定は常に人間に委ねられなければならない。機械が人間を導くことに終わる『危険な魔力』に陥ってはならない。」 教皇フランシスコ, 教皇庁生命アカデミー総会演説 2020年

USCCB「AI原則と優先事項」(2025年)は、技術が「人間の行為を補完するものであり、代替するものであってはならない」と宣言している。事前意思に基づく資産運用支援は、技術が人間の判断を置き換えるのではなく、本人の声を判断の場に届ける「補助線」として設計される限りにおいて、この原則に適合する。

出典: 信仰教理省『Dignitas Infinita』2024, 24条 / 教皇フランシスコ, 一般謁見 2022.6.1 / USCCB「AI Principles and Priorities」2025 / ヨハネ・パウロ2世, 精神障害者の尊厳と権利に関する国際シンポジウム 2004.1.5

今後の課題

認知症患者の資産を「守る」だけでなく「本人のために活かす」仕組みは、法制度・技術・人間関係の交差点にある。この研究が開いた問いを、さらに深めていく道筋がある。

事前意思の更新プロトコル

判断力の緩やかな低下に対応し、初期認知症の段階でも安全に意思を更新できる仕組みを設計する。「完全な合理性」と「完全な喪失」の間にある広大なグラデーションに対応する制度が必要である。

家族間合意形成の支援

事前意思と家族の現在の判断が衝突する場面で、対話を促進する仕組みを開発する。「本人の声」と「家族の思い」をともに尊重する合意プロセスの設計が求められる。

制度的実装の検証

成年後見制度との法的整合性を検証し、Living Asset Directive が既存の法体系の中でどう位置づけられるかを明らかにする。信託制度や任意後見との連携モデルを探る。

「かつての自分」の声が「今の自分」を支えるとき、そこに生まれるのは支配か、それとも愛か。