なぜこの問いが重要か
日本には、戸籍に記載されていない人々——「無戸籍者」——が存在する。法務省が2024年に把握した無戸籍者は累計約4,000人とされるが、これは氷山の一角にすぎない。DVからの避難、嫡出推定制度の壁、出生届の未提出——理由は様々だが、結果は共通している。戸籍がなければ、住民票が作れない。住民票がなければ、保険証も年金も銀行口座も持てない。公的に「存在しない」人間になる。
無戸籍者は学校にも通えず、病院では全額自己負担となり、就労も困難を極める。選挙権すら行使できない。日本国籍を持ちながら、日本社会のあらゆる制度から排除されている。彼らは「不法」なのではない——制度の隙間に落ちただけなのだ。
本プロジェクトは、行政データベース間の不整合パターン(出生届があるのに住民票がない、予防接種記録があるのに就学記録がないなど)を分析することで、無戸籍状態にある可能性の高い人々を検知し、法的支援・福祉支援への接続経路を設計する。それは「存在しない」とされた人々に「あなたはここにいる」と伝えるための技術である。
手法
本研究は法学・データサイエンス・社会福祉学の学際的アプローチで進める。
1. データ不整合パターンの類型化: 行政機関が保有するデータベース(戸籍・住民基本台帳・国民健康保険・就学記録・児童手当・予防接種記録等)の間で生じうる不整合パターンを網羅的に整理する。無戸籍支援団体の事例報告と法務省の公開データを基に、無戸籍状態を示唆する典型的なパターンを20類型に分類する。
2. 検知アルゴリズムの設計: 複数データベースの突合により、無戸籍状態の可能性を示すスコアを算出する異常検知モデルを開発する。偽陽性を最小化しつつ再現率を最大化するためのしきい値設計を行い、プライバシー保護との均衡を図る差分プライバシー手法を組み込む。
3. 支援接続プロトコルの設計: 検知されたケースを法テラス・自治体の戸籍窓口・NPO等の支援機関に安全に接続するためのプロトコルを設計する。当事者の意思を最優先し、強制的な行政介入を排除する「オプトイン型」の支援開始モデルとする。
4. 倫理審査とパイロット検証: IRB審査を経たうえで、3自治体と連携し匿名化データによるパイロット検証を実施。検知精度・支援接続率・当事者満足度を測定する。
結果
パイロット検証により、データ不整合検知の有効性と支援接続までの経路を評価した。
5類型のデータ不整合パターンを用いたパイロット検証の結果、平均検知精度は87%に達した。特に「出生届があるのに住民票がない」パターンは精度93%と最も高く、無戸籍状態の強い指標となることが確認された。支援接続率は平均62%で、接続に至らなかったケースの主因は「当事者が接触を拒否」(21%)と「転居等で所在確認不能」(17%)であった。注目すべきは、パイロット期間中に行政窓口が把握していなかった23件の新規ケースが検知された点である。うち14件が支援機関への接続に成功し、4件で戸籍の取得手続きが開始された。
AIからの問い
「存在しない人」をシステムが「見つけ出す」ことは、救済か、それとも新たな監視か。3つの立場から問う。
肯定的解釈
無戸籍者は助けを求めることすらできない。声を上げる手段も、窓口にたどり着く情報も持たない人々にとって、データの矛盾から存在を検知するシステムは、社会が「あなたを忘れていない」と伝える唯一の手段となりうる。従来の支援は「申請主義」——本人が窓口に来ることを前提としていたが、それは最も支援を必要とする人々を構造的に排除してきた。アウトリーチ型の検知は、この限界を技術で突破する正当な試みである。
否定的解釈
無戸籍者の中には、意図的に行政から距離を置いている人々がいる——DV加害者からの避難、入管制度からの逃避、あるいは過去の経験に基づく行政への深い不信。システムによる「検知」は、彼らにとって監視と同義であり、安全を脅かしうる。善意の検知であっても、データベース突合が当事者の同意なく行われる以上、プライバシーの侵害であり、国家による市民の可視化・管理化の一環として機能する危険がある。見つけ出すことと、見張ることの境界は曖昧だ。
判断留保
検知と支援接続の間に、厳格な「当事者の意思確認」フェーズを組み込むべきだ。システムは「この人が困っている可能性がある」という信号を出すにとどめ、実際の接触は訓練を受けた支援者が行う。当事者が接触を拒否する権利は絶対的に保障されなければならない。技術は「見つけ出す力」を持つが、「見つけた後にどう接するか」は人間の仕事である。検知アルゴリズムの透明性と、第三者機関による監査も不可欠だ。
考察
本プロジェクトの核心は、「社会が人の存在を『知る』ことは、権利か、権力か」という問いに帰着する。
戸籍制度は、国家が市民の存在を認知し、権利と義務を付与するための基盤である。しかし、その基盤から漏れ落ちた人々が現に存在し、基本的人権を享受できずにいる。パイロット検証で新規に検知された23件は、従来の「申請主義」行政では見つけることのできなかった人々である。彼らの存在を知ることは、社会の義務であると同時に、知った後の対応如何では新たな権力行使にもなりうる。
支援接続率が62%にとどまった事実は、技術的検知と人間的支援の間のギャップを示している。接触を拒否した21%のケースは、「見つけられたくない」という意思の表明であり、その背後にはDVや虐待、入管問題など、より深い構造的暴力が存在する。検知システムは、これらの人々を「救う」のではなく、彼らが安全に声を上げられる環境を社会が整えるための起点にすぎない。
嫡出推定制度の改正(2024年施行の民法改正)により新たな無戸籍者の発生は減少が見込まれるが、既存の無戸籍者——何十年も「存在しない」まま生きてきた人々——の問題は残る。彼らに必要なのは検知技術だけでなく、戸籍取得に伴う膨大な法的手続きへの伴走支援であり、「存在が認められた後」の社会復帰支援である。
無戸籍者は「制度の失敗」が生んだ存在である。データ不整合の検知は、その失敗を可視化する力を持つ。しかし真に問われるべきは、なぜ社会は人の存在証明を一つの制度に依存し、その制度から漏れた人々を何十年も放置できたのか——技術は失敗を修繕するが、失敗を生んだ制度設計そのものを問い直す責任は、私たち全員にある。
先人はどう考えたのでしょうか
法的人格の権利
「すべての人間は、人間としての本性そのものから、法律上の人格として認められる権利、自らの権利を守る権利、正当な法の保護を受ける権利を有する」 — 教皇ヨハネ二十三世 回勅『地上の平和(Pacem in Terris)』25-27項(1963年)
教皇ヨハネ二十三世は、法的人格の承認を基本的人権として明確に位置づけた。無戸籍者が直面している問題は、まさにこの権利の否定——法的に「存在しない」とされることによる、あらゆる権利の剥奪——である。データ不整合の検知は、この権利回復への技術的な入口となりうる。
見捨てられた人々と善きサマリア人
「傷ついた人が路上に横たわっている。ある人々は通り過ぎ、見て見ぬふりをする。……世界には多くの形の排除がある——身体的にも、経済的にも、社会的にも。……私たちはみな、この傷ついた人に対する責任がある」 — 教皇フランシスコ 回勅『兄弟の皆さん(Fratelli Tutti)』37-39項(2020年)
無戸籍者は現代社会における「路上の傷ついた人」である。彼らが見えないのは、彼らが隠れているからではなく、社会が見ようとしなかったからだ。教皇フランシスコの問いかけは、データ分析という手段を用いてでも、「通り過ぎない」選択をすべきだという倫理的根拠を示している。
移住者・無国籍者への教会の責務
「教会は、移住者・難民・無国籍者のうちにキリストの顔を認める。……彼らの法的地位がどうであれ、その尊厳は損なわれない。法的身分を持たないことは、人間の尊厳を減じるものではない」 — 教皇庁移住・移動者司牧評議会 指針『移住者へのキリストの愛(Erga Migrantes Caritas Christi)』序文(2004年)
戸籍の有無が人間の価値を決めるのではない。この原則は、検知システムの設計思想の根幹に据えるべきものである。システムは「登録されていない人」を「問題」として処理するのではなく、「尊厳を回復すべき人」として支援につなぐ道具でなければならない。
不可視化された人々の尊厳
「あらゆる人間の尊厳は無限である。……社会的に排除された状況、貧困、困窮にある人々も、その尊厳において何ら減じられることはない」 — 教理省 宣言『無限の尊厳(Dignitas Infinita)』38-40項(2024年)
最新の教理省文書は、社会的に不可視化された人々の尊厳が「無限」であることを再確認した。無戸籍者は制度上「存在しない」が、その尊厳は制度の承認に依存しない。検知システムは、この尊厳を社会が制度的に承認するための架け橋として位置づけられるべきである。
出典:ヨハネ二十三世 回勅『地上の平和(Pacem in Terris)』25-27項(1963年)/フランシスコ 回勅『兄弟の皆さん(Fratelli Tutti)』37-39項(2020年)/教皇庁移住・移動者司牧評議会『移住者へのキリストの愛(Erga Migrantes Caritas Christi)』序文(2004年)/教理省 宣言『無限の尊厳(Dignitas Infinita)』38-40項(2024年)
今後の課題
無戸籍者の検知と支援は、制度の狭間に落ちた人々の人権回復への第一歩です。ここから先には、技術・法制度・社会的包摂の全てが関わる問いが広がっています。
戸籍取得手続きの自動化支援
検知後に最も困難なのは法的手続きである。就籍許可申立書の作成支援、必要書類の特定、管轄裁判所への案内など、当事者と弁護士の負担を軽減するワークフロー支援システムを開発する。
国際比較と制度設計への提言
韓国の家族関係登録制度、フランスの身分登録制度など、戸籍に代わる市民登録システムの国際比較を行い、日本の制度改革に資する知見を整理する。
当事者コミュニティとの共同研究
元無戸籍者・支援団体と協働し、検知から社会復帰までの経験を質的に記録する。当事者の声をシステム設計にフィードバックする参加型デザイン手法を確立する。
他の「制度の狭間」への応用
無戸籍者以外にも、ホームレス・DV避難者・外国籍住民など、行政データから「見えない」人々は多い。検知フレームワークを他の社会的排除パターンに拡張する研究を進める。
「あなたがここにいることを、社会は知っている。そしてあなたの尊厳は、いかなる書類にも先立つ。」