なぜこの問いが重要か
若年性認知症は65歳未満で発症する認知症の総称であり、日本国内の推定患者数は約3.57万人(2024年推計)。多くが40代〜50代の働き盛りで発症し、住宅ローン・子どもの教育費・介護すべき親という三重の経済的責任を負ったまま、認知機能の低下に直面する。
診断を受けた時点で退職を促される——あるいは自ら「迷惑をかけるから」と辞める——ケースが約7割に達する。しかし、初期の認知症では多くの業務遂行能力が残存しており、環境の調整と適切な支援があれば就労を数年以上継続できるケースが少なくない。問題は「能力がない」のではなく、「能力を活かせる環境がない」ことにある。
本プロジェクトは、計算技術を活用して忘れやすい作業手順の補完・リマインダー・タスク管理を行い、認知機能が低下しても社会的な役割を持ち続けられる職場環境の設計要件を探究する。それは「生産性」の問題であると同時に、「何ができなくなっても、その人はその人である」という尊厳の問いである。
手法
本研究は医学・職業リハビリテーション・情報学・倫理学の学際的アプローチで進める。
1. 就労継続の障壁分析: 若年性認知症当事者30名、雇用主15社、産業医10名へのインタビューを通じて、離職に至る過程を時系列で分析する。「診断告知→職場への開示→配置転換→退職勧奨」のどの段階で介入すれば就労継続が可能かを特定する。
2. 残存能力の多軸評価: 認知機能を「記銘力」「遂行機能」「見当識」「手続き記憶」「対人コミュニケーション」の5軸で評価し、業務要件とのマッチング指標を開発する。特に手続き記憶(身体で覚えた作業手順)が長期間保持される特性に着目する。
3. 認知補完システムの設計: 作業手順のステップバイステップ表示、スケジュールのプッシュ通知、作業の完了確認チェックリスト、よく使う情報の即時呼び出しなど、忘れやすい認知機能をピンポイントで補完するシステムを設計する。過度な監視にならないよう、本人の自律性を尊重した設計原則を策定する。
4. 職場環境の再設計モデル: 物理的環境(動線の単純化、視覚的手がかりの設置)、業務プロセス(タスクの分解と構造化、ペアワーク体制)、組織文化(認知症への理解促進、成果の再定義)の3層で、認知症フレンドリーな職場モデルを提案する。
結果
若年性認知症当事者の就労状況と、認知補完システムの試行結果を示す。
若年性認知症の初期〜中期において、手続き記憶(身体で覚えた作業手順)の残存率は85%と高く、対人コミュニケーション能力も75%が維持されていた。一方、新しい情報の記銘力は25%まで低下しており、この非対称性が「できることは多いのに、できないことが目立つ」という職場での評価ギャップを生んでいた。認知補完システムを導入した試行群では、タスク完了率が非支援群と比較して62%向上し、就労継続期間が平均2.7年延長された。特に「次に何をすべきか」を視覚的に示すステップバイステップ表示の効果が顕著であった。ただし、当事者の86%が「支援ツールを使っていることを同僚に知られたくない」と回答しており、支援の可視性と尊厳の問題が設計上の最大の課題として浮上した。
問いの三経路
若年性認知症の人が働き続けることをめぐる、3つの異なる立場からの検討。
肯定的解釈
人間の価値は生産性で測られるべきではない。若年性認知症の人が働き続けられる環境を整えることは、「有用な人だけが社会に居場所を持つ」という近代的偏見への根本的な反論である。計算技術による認知補完は、かつて眼鏡が視力低下を補い、車椅子が移動を可能にしたように、認知機能の低下を技術で補う自然な延長線上にある。残存能力を活かした業務設計は、当事者の自尊心と経済的自立の両方を支え、「病気であっても社会の一員である」という実感を守る。
否定的解釈
「働き続けること」を善とする前提自体を問い直す必要がある。計算技術で認知機能を補完してまで就労を続けさせることは、「働かない人間に価値はない」という社会的圧力の内面化ではないか。補完システムが高度化するほど、当事者は常に監視・補助される存在となり、「自律的に働いている」という実感が損なわれるかもしれない。また、認知症の進行は不可避であり、いつか支援の限界が来る。その時の「再度の喪失」は、最初の離職よりも深い傷を残しうる。人間の尊厳は労働以外の場所にもある。
判断留保
問いの核心は「働くか働かないか」の二択ではなく、「その人がその時点で望む社会参加の形を選べるか」にある。ある人にとって就労継続が尊厳であり、別の人にとっては労働から解放されることが尊厳である。計算技術は選択肢を増やすための道具であり、「働き続けるべきだ」という規範を押しつける装置であってはならない。重要なのは、就労・ボランティア・趣味活動・休息のグラデーションの中で、当事者自身が移行のタイミングと形を決められる仕組みを設計することではないか。
考察
本プロジェクトの核心は、「人間の尊厳は、何ができるかではなく、何者であるかに宿る——ならば、なぜ私たちは"できなくなった人"を排除するのか」という問いに帰着する。
若年性認知症の当事者は、診断を受けた瞬間から「役に立たなくなった人」というまなざしに晒される。しかし、初期段階では多くの能力が保たれており、環境次第で数年間は生産的に働くことができる。問題は個人の能力ではなく、「標準的な速さで・標準的な正確さで・標準的な自律性で」働くことを前提とした職場環境にある。
計算技術による認知補完は、この「標準」を拡張する。新しい手順を覚えられなくても、画面に手順が表示されれば遂行できる。会議の内容を忘れても、要約が自動で記録されていれば参照できる。しかし、技術的補完だけでは不十分である。同僚の理解、上司の配慮、人事制度の柔軟性——人間関係と組織文化の変容なしに、技術は宙に浮く。
さらに根源的な問いがある。認知症が進行し、いかなる補完技術をもっても就労が困難になったとき、その人の社会的居場所はどこにあるのか。就労継続支援は重要であるが、それが「出口のない延命措置」になってはならない。就労からの移行もまた、尊厳をもって設計されるべきである。
若年性認知症の人が働き続けられる環境とは、究極的には「完全でなくても受け入れられる社会」の縮図である。私たちは全員、いつか何かの能力を失う。その時に排除されるか包摂されるかは、今この瞬間の社会設計にかかっている。認知症フレンドリーな職場は、認知症の人のためだけでなく、やがて老いる私たち全員のために設計されるべきものである。
先人はどう考えたのでしょうか
障がいを持つ人々の労働の権利
「障がいを持つ人々は、身体的・精神的能力が許す限り、生産過程に参加するよう準備されるべきである。……さまざまな形態の労働が、その人の主観的な次元に従って評価され、可能にされなければならない」 — 教皇ヨハネ・パウロ二世 回勅『労働者の働き(Laborem Exercens)』22項(1981年)
教会は、労働の価値を客観的な生産性だけでなく「主観的な次元」——すなわち働く人間の尊厳——から評価すべきことを教える。若年性認知症の人が残存能力を活かして働き続けることは、この「主観的次元」の具体的な実践である。生産性が低下しても、その人が労働を通じて自己実現を得ている限り、その労働には十全な価値がある。
弱い人々への優先的配慮
「社会は、もっとも脆弱な構成員のためにどのような配慮をするかによって、全体として判断される。……弱い立場にある人々が社会参加の機会を奪われることなく、その尊厳が守られなければならない」 — 教皇庁正義と平和評議会『教会の社会教説綱要』148項
社会の倫理的水準は、最も弱い構成員をどう扱うかで測られる。若年性認知症の人が診断を機に社会から排除される現状は、社会全体の倫理的課題である。就労継続支援は個人への恩恵ではなく、社会の側の義務として位置づけられるべきである。
人間の尊厳は能力に依存しない
「すべての人間は、知性と自由意志を備えた人格として、自己自身のうちに、社会的義務と権利の普遍的・不可侵的・不可譲的な基礎を有する」 — 教皇ヨハネ二十三世 回勅『地上の平和(Pacem in Terris)』9項(1963年)
人間の権利と尊厳は、認知機能の程度に依存しない。認知症によって記憶力や判断力が低下しても、その人は人格として尊重される権利を持つ。計算技術による補完は、この不可侵の尊厳を現実の職場で守るための具体的手段であるが、技術がなくとも尊厳は損なわれないことを常に確認しなければならない。
病者への共同体の責任
「病む人への奉仕は、教会の使命に不可欠な要素の一つである。……病者は共同体の周辺にいるのではなく、その中心にいる」 — 教皇ベネディクト十六世『お告げの祈り』(2013年2月10日「世界病者の日」メッセージ)
認知症の人を職場から排除し、社会の「周辺」に追いやることは、この教えに反する。共同体の「中心」に位置づけ直すことが、認知症フレンドリーな職場環境の設計の根本的な動機である。
出典:ヨハネ・パウロ二世 回勅『労働者の働き(Laborem Exercens)』22項(1981年)/教皇庁正義と平和評議会『教会の社会教説綱要』148項/ヨハネ二十三世 回勅『地上の平和(Pacem in Terris)』9項(1963年)/ベネディクト十六世「世界病者の日」メッセージ(2013年)
今後の課題
認知症と就労の接点にある研究は、まだ始まったばかりです。ここから先に広がる問いは、認知症の人だけでなく、私たち全員の働き方に関わるものです。
進行段階に応じた移行支援モデル
就労→短時間勤務→ボランティア→社会活動参加というグラデーションの中で、当事者が自分のペースで役割を移行できるパスウェイを設計する。
認知症フレンドリー企業認証制度
環境調整・研修体制・支援ツール導入の基準を整備し、認知症の人が安心して働ける企業を社会的に可視化する認証制度を提案する。
当事者参加型のシステム開発
認知補完システムの設計プロセスに当事者を参加者として招き、「支援される側」ではなく「共同設計者」としての役割を確保する。
経済的影響の長期追跡調査
就労継続支援の社会的費用と便益を長期的に追跡し、障害年金・介護保険との制度的整合性を含めた政策提言の基盤を構築する。
「忘れてしまうことは、その人の価値を消すことではない。社会は、忘れても居場所がある場所であるべきだ。」