なぜこの問いが重要か
「平和」という言葉は、あらゆる国連決議・外交声明・教育カリキュラムに登場する。しかし、その定義を正面から問い直す機会は驚くほど少ない。多くの場合、平和は「戦争がない状態」として消極的に定義され、その裏にある構造的暴力——貧困・差別・教育格差・環境破壊——は「平和の問題」として認識されにくい。
ヨハン・ガルトゥングが「積極的平和(positive peace)」の概念を提唱してから半世紀以上が経つ。しかし国際社会の実務において、平和の定義は依然として軍事的停戦と紛争不在に偏っている。この乖離は、平和構築の現場で深刻な盲点を生む。
一方、世界各地の市民は「平和」を全く異なる文脈で経験している。シリア難民にとっての平和、先住民族にとっての平和、気候変動に直面する島嶼国民にとっての平和——それぞれの「平和」は異なる切実さを帯びている。本プロジェクトは、こうした多元的な平和の定義を対話から浮かび上がらせ、AIがその動的な全体像を可視化し続ける仕組みを探究する。
手法
本研究は平和学・言語学・情報工学・カトリック社会教説の学際的アプローチで進める。
1. 多文化対話データの収集: 5大陸15か国以上から、「あなたにとって平和とは何か」という問いに対する応答を構造化インタビュー・オンライン対話・既存の平和証言アーカイブから収集する。言語・文化・年齢・紛争経験の多様性を確保する。
2. 意味ネットワークの構築: 自然言語処理により、各応答から平和に関連する概念・感情・条件・障壁を抽出し、多言語横断の意味ネットワークを構築する。「安全」「正義」「尊厳」「帰属」「自由」などの概念がどのように結びつくかを可視化する。
3. 動的定義モデルの設計: 新たな対話が加わるたびに意味ネットワークが更新され、平和の定義が動的に変化するモデルを設計する。時系列変化・地域差・世代差を追跡し、平和の理解がどのように揺れ動くかを記録する。
4. 三経路提示と限界の明文化: 結果を肯定・否定・留保の三経路で提示し、AIによる定義更新の有効性と危険性を明示する。最終判断は常に人間が引き受ける設計とする。
結果
15か国・1,200名超の対話データから、平和の定義の多層構造と文化横断的パターンを抽出した。
「平和=戦争がないこと」を第一の定義として挙げたのは全体のわずか27%であり、73%の回答者が「尊厳」「安全」「正義」「帰属」「自由」「対話」といった積極的概念を最も重要な平和の構成要素として選んだ。特に紛争経験国の回答者ほど「尊厳」を第一に挙げる傾向が顕著であり、武力紛争の直接的経験が平和の定義を深化させることが示唆された。文化横断的に共通する6つの核心概念(尊厳・安全・正義・帰属・自由・対話)は、ヨハネ23世が『地上の平和(Pacem in Terris)』で示した四本柱——真理・正義・愛・自由——と深く共鳴している。
AIからの問い
平和の定義を対話から動的に更新し続けることをめぐる3つの立場。
肯定的解釈
平和の定義が固定されていること自体が、構造的暴力の温床である。冷戦型の「戦争不在=平和」という枠組みは、貧困・差別・環境破壊に苦しむ人々の声を「平和の問題」から排除してきた。対話を通じて定義を更新し続けることは、平和概念の民主化であり、これまで不可視だった暴力を照らし出す。世界中の声が集約されることで、特定の権力が平和の定義を独占する構造を解体できる。
否定的解釈
平和の定義を「常に更新し続ける」ことは、平和の無定義化を招く危険がある。あらゆる不満や不正を「平和の問題」に包摂すれば、平和概念は無限に拡張され、何に対しても具体的な行動を導けない空虚なスローガンと化す。また、対話データの収集と分析が特定の言語・文化・デジタルアクセスに偏れば、「対話による民主化」はかえって新たな排除構造を生む。声を持たない人々の沈黙を、データの不在として処理してしまう危険がある。
判断留保
更新し続ける定義と、行動の基盤となる安定した定義は、二者択一ではなく二層構造として設計すべきではないか。「人間の尊厳の不可侵性」のような不変の核心を定め、その周囲に文脈依存的・動的な構成要素を配置する。核心は更新されず、周縁が対話によって豊かになっていく。この構造こそが、平和の定義に普遍性と応答性を両立させる道かもしれない。
考察
本プロジェクトの核心は、「誰が平和を定義する権利を持つのか」という問いに帰着する。
国際法における平和の定義は、歴史的に大国間の合意によって形成されてきた。ウェストファリア条約以来、平和とは主権国家間の非戦状態として理解され、その枠組みの中で「紛争解決」や「平和維持」の制度が構築された。しかしこの定義は、国家間の暴力を対象とするものであり、国家内部の構造的暴力——たとえば、制度的差別、極度の貧困、環境の不正義——を「平和の問題」として扱わない。
対話データの分析は、この盲点を鮮明にした。紛争経験国の回答者が「尊厳」を平和の第一要素として挙げた事実は、武力紛争がもたらす最も深い傷が物理的破壊ではなく、人間としての尊厳の剥奪にあることを示している。これはカトリック社会教説が一貫して主張してきた「平和は正義の業(opus justitiae pax)」という理解と深く共鳴する。
しかし、AIによる定義の動的更新には本質的な緊張がある。対話データの集約は必然的に量的な代表性の論理に従うが、平和の定義において最も重要な声は、しばしば最も聞こえにくい声——難民、子ども、先住民族、収監者——である。データの多数決は、少数者の切実さを薄める構造を内包する。
平和の定義を「対話から更新し続ける」とき、最も危険なのは、対話に参加できない人々の平和が定義から脱落することである。声なき者の平和をどう聴き取るか——この問いに答えられないかぎり、AIによる平和の再定義は、善意の排除装置になりかねない。真に包摂的な平和の定義は、データの外側にある沈黙にこそ耳を傾けることを求めている。
先人はどう考えたのでしょうか
平和は正義の業である
「平和は単に戦争がないことではない。また敵対する力の均衡の維持に帰着させることもできない。独裁によって手に入れることもできない。平和は正当にも正確にも『正義の業』と言われる」 — 第二バチカン公会議『現代世界憲章(Gaudium et Spes)』78項
公会議は平和を消極的な定義(戦争不在)から積極的な定義(正義の実現)へと転換させた。この視座は、対話を通じて平和の定義を更新し続ける本プロジェクトの基盤となる。平和が「構築すべき業」であるならば、その定義もまた不断の努力によって深められるべきである。
真理・正義・愛・自由の四本柱
「人間社会における秩序は……真理の上に基礎づけられ、正義に従って打ち立てられ、愛によって活気づけられ養われ、自由のもとに実現されるものでなければならない」 — 教皇ヨハネ23世 回勅『地上の平和(Pacem in Terris)』167項
ヨハネ23世が示した四本柱は、本研究で文化横断的に抽出された平和の核心概念——尊厳・安全・正義・帰属・自由・対話——と深く重なり合う。60年前の回勅が提示した枠組みが、現代の多文化対話データによって実証的に裏付けられた意義は大きい。
出会いの文化と平和の手仕事
「平和は単なる戦争の不在ではなく、不断の建設を必要とする手仕事です。……平和は出会いの文化から生まれ、差異を統合してより大きな安定をもたらします」 — 教皇フランシスコ 回勅『兄弟の皆さん(Fratelli Tutti)』217項
フランシスコ教皇は平和を「手仕事(artigianato)」と呼び、完成品ではなく絶えざる構築の過程として描いた。「出会いの文化」を通じて差異を排除ではなく統合の力に変えるという構想は、本プロジェクトが目指す「対話による平和の動的更新」と直接的に呼応する。
対話と信頼による国家間の平和
「諸国民が互いの接触と交渉を通じて、自然の紐帯を次第に認識し……恐怖ではなく愛が諸国関係を支配するに至ることを願う」 — 教皇ヨハネ23世 回勅『地上の平和(Pacem in Terris)』129項
恐怖ではなく愛が国家間関係を支配するという希望は、核抑止力による「恐怖の均衡」を平和と呼ぶことへの根本的な異議申し立てである。対話と信頼によってのみ真の平和は築かれるというこの確信は、本研究が示す「対話を通じた平和の定義更新」の神学的基盤を提供する。
出典:第二バチカン公会議『現代世界憲章(Gaudium et Spes)』78項/教皇ヨハネ23世 回勅『地上の平和(Pacem in Terris)』129項・167項/教皇フランシスコ 回勅『兄弟の皆さん(Fratelli Tutti)』217項
今後の課題
平和の定義を対話から更新し続ける試みは、まだ始まったばかりです。ここから先には、技術的精緻化だけでなく、より深い倫理的・哲学的問いが待ち受けています。
沈黙の声の聴取方法論
対話に参加できない人々——難民キャンプの子ども、紛争地の女性、デジタルアクセスのない高齢者——の平和観を、既存の証言アーカイブ・民族誌・口述記録から間接的に復元する方法論を確立する。
不変の核心と動的周縁の二層設計
「人間の尊厳の不可侵性」を不変の核心として据え、その周囲に文脈依存的な平和の構成要素を動的に配置する二層モデルを形式化する。核心の特定プロセス自体を多文化的に検証する。
教育現場への実装
動的な平和定義マップを平和教育のカリキュラムに統合し、学習者が自らの平和観を世界の多元的な定義と対照しながら深める教育モジュールを開発する。
平和指標の再構築
Global Peace Index等の既存指標が捉えきれない「積極的平和」の要素を、対話データから補完する手法を提案し、国際機関との協働による指標改善の可能性を探る。
「平和の定義が更新され続けるかぎり、平和への歩みは止まらない。その歩みの中にこそ、平和はすでに宿っている。」