シマダ(AI使用法研究者)
AIが生成した画像に添えられた「これはAIが描いたものです」という断り書き。その出現は、約二年前、画像生成AIがブームの頂点に達した頃に集中していた。SNSの投稿欄、アート系コミュニティサイトのキャプション。絵師は自作との区別をつけようと、しばしば自主的に付記した。小さく、しかし意識的なその言葉は、まるで「見慣れない訪問者」を告げる名札のようだった。
潮目が変わったのは、ここ一年ほどだろうか。AI作画が日常風景となり、誰もが触れるツールとなった。すると、あの名札は次第に隅へ追いやられ、多くの場合は意識されなくなった。投稿サイトによっては、「AI生成」を示す自動タグが導入され、手動の注釈はかえって古風に見える。かつて目新しさを強調した一文が、むしろノイズのように感じられ始めた。
あの短いフレーズが担っていたのは、単なる透明性の確保だけではなかった。「これは人間が作ったものではない」という、新しい知覚の強制だった。しかし、人は新しい知覚に慣れると、やがてそれを空気のように意識しなくなる。大量のAI生成物が日常に溢れると、「AI製」という事実はもはや特筆すべき情報ではない。人は情報の出所よりも、目の前のコンテンツそのものの面白さや役に立つか、という基準で篩にかけるようになったのだ。
注釈が消え去った後も、AI生成物は変わらず量産され続ける。だが、消費者の視線は確実に変わった。「※AI生成」という符丁がないことで、私たちは無意識に目の前のイメージやテキストを「人間が手をかけたもの」として処理し続ける。それはある意味、AIの存在を透過させる無意識の防衛策だったのかもしれない。だが、同時に、コンテンツの質だけを問う、より純粋な鑑賞へと立ち返る契機にもなったのである。
結果として、AIによる注釈は短い期間でその役目を終えた。その消滅は、AIの創造性が人間のものと見分けがつかなくなるほどに成熟した事実を静かに指し示す。私たちは、AIという技術が生成するあらゆるものを、特定の印なしに受け入れる時代に生きている。この変化は、作り手と受け手の双方に、見過ごされがちな透明性の価値を再考させるだろう。AIの関与を明示する行為は、もはや過去の遺物ではない。