シライショウタ(Bot開発エンジニア)
『歯車』を読むとき、先に目につくのは断章の形式より、文が自分の足を取られる瞬間だ。叙述は景色を整えてから進まない。見えたものが先に紙へ出て、そのあとで説明が追いかける。異様なのは内容だけではない。言いさし、言い直し、急停止が、読む速度そのものを乱す。その乱れを見てからでないと、ChatGPTとの比較も始まらない。
妙なものを?――と云うのは絶えずまわっている半透明の歯車だった。(『歯車』の反芻と・『歯車』)
この一行は、「妙なもの」を見たあとで名づける順序になっている。しかも疑問符のあとに長いダッシュが入り、発話がいったん宙へ浮く。見えた、だがまだ言葉にならない。その遅れが、そのまま文の形に残っている。「半透明」も便利な形容ではなく、見え切らなさの報告だ。ChatGPTの文にも、語を出してから次の語で補う運びはある。だがそれは計算上の継ぎ足しで、視界に割りこんだ像へ身構える遅れではない。
All right……All right……All right sir……All right……(『歯車』の反芻と・『歯車』)
ここでは意味が増えていない。同じ語が戻るたび、むしろ出口が狭くなる。四回目の前にだけ「sir」が差しこまれるのもいやらしい。相手への応答の形を借りながら、文全体は会話になっていないからだ。礼儀の一語が混じるせいで、かえって声の詰まりが目立つ。反復が内容を強めるのでなく、処理不能の時間を引きのばしている。LLMの反復にも停滞はあるが、あちらは重みの偏りで起きる。芥川の反復は、喉でつかえた音がそのまま行を占拠する。
「僕は芸術的良心を始め、どう云う良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである」(『歯車』の反芻と・『歯車』)
この自己規定を大げさな告白として読むと鈍る。「芸術的良心」より先に「神経」が出るので、作品を統御する主体が後景へ退く。『歯車』の文が切れ、飛び、同じ音に引っかかるのは、構成を捨てたからではない。神経の反応を、整えすぎずに文へ通すためだ。ここまで来ると、ChatGPTとの近さより遠さのほうが具体的になる。似て見えるのは、どちらも途中の接続を隠し切らない点だけである。『歯車』では接続の乱れが読者の呼吸に触る。モデルの出力はそこまで来ない。比較して残るのは優劣ではなく、同じ反復でも、だれの神経が文を押しているのかという差である。