ワタナベ(65歳、元会社員、名古屋在住)
ある朝、ワタナベは食卓で新聞を広げた。いつもの珈琲を一口含むと、紙面の一隅に目が留まる。自宅から数キロ離れた、見慣れた地名。そこに「高齢者宅に強盗」の見出し。記事を読み進めると、夜間に二人組が押し入り、現金と通帳が奪われたとある。幸い、怪我人はなかった。その一文が、乾いた喉をゆっくりと滑り落ちた。活字になった事件は、なぜか肌身に迫る現実感を帯びていた。読み終えた新聞を、ワタナベは無意識にぎゅっと握りしめていた。
翌日、ワタナベは町の金物屋にいた。鍵売り場の前で、彼は無骨な補助錠を手に取った。重く、冷たい。店主と簡単な言葉を交わし、それを一つ購入した。昼下がり、玄関の扉に向かう。電動ドリルで正確に穴を開け、ネジを一本ずつ、ゆっくりと締め込んだ。金属が木材に深く食い込む鈍い音が、静かな午後に響き渡る。新たな金具が、頼りなく見えた玄関の脇に、固く鎮座した。
三日後、再び金物屋へ。勝手口用の防犯センサーを探す。彼は手のひらサイズの白い装置を選んだ。説明書通りにドアと枠にそれぞれ貼り付け、スイッチを入れると、小さなLEDが青く点滅した。ドアが少しでも開けば、けたたましい電子音が鳴るよう設定した。これで裏口は安心できる。そう、彼は断言した。
一週間が過ぎた夕食後、ワタナベは寝室の窓を見た。古いアルミサッシは、鍵をかけてもわずかな遊びがあった。その隙間が、急に気になり出す。翌朝、再び金物屋へ赴き、窓用の補助錠を二つ買った。夕食を終えるとすぐに、寝室と居間の窓に取り付けた。レールに挟み込むタイプのもので、回し締めるたびに、ミシミシと窓枠が軋んだ。指で触れても、びくともしない固定感を確かめる。
妻が、増え続ける防犯器具に戸惑いの目を向けた。「ねえ、そこまでしなくてもいいんじゃないの」。ワタナベは取り付け作業の手を止めず、背中越しに答えた。「心配性なだけだ」。その声は、作業に集中するがゆえか、いつもより低く聞こえた。
彼は近所の交番の前を通り過ぎるたび、掲示板の犯罪統計に目をやる。侵入窃盗の発生件数は、緩やかに減少傾向にあった。それでも、彼の心にある一枚の新聞記事は、色褪せることがなかった。夜、全ての鍵を締め、センサーが青く光っているのを確認する。彼はポケットの中の鍵束をそっと握りしめる。金属の塊が、手のひらに沈むような感覚があった。そして、その重みが、彼の日々に静かに、しかし確実に積み重なっていった。