題材自体は悪くありません。放送禁止語を「制度と慣習のあいだにある見えない規範」として捉える視点には筋があります。ただし現稿は、具体ではなく「論としてもっともらしいこと」を滑らかに並べる方向へ流れすぎています。そのため、読者は知った気にはなるが、どこでも傷つかず、どこにも刺さらない。いちばんの問題は、書き手自身の発見より先に、賢そうな要約文体が前面に出ていることです。
「言葉の空白が、思考の空白とならないために。」
完全に予想どおりの着地です。「空白」という比喩を出した時点で、最後に「思考の空白」へ回収するのは一本道で、読者が一歩先に結論を言えてしまう。意外性ではなく、予定調和の標語になっています。
「電波法という骨格の背後で、時に幽霊のように立ち現れる『放送禁止語の辞典』。」
「骨格」「背後」「幽霊のように立ち現れる」は、抽象語に雰囲気だけを足す典型的な人工的レトリックです。何かを見抜いた感じは出ますが、実際には何も見えていません。冒頭からこの調子だと、論ではなく“それっぽさ”の生成文に見えます。
「証左と言えるでしょう」「現実ではないかと考えます」「更新され続けることでしょう」「ものであってほしいと願っています」
断定すべきところで腰が引けています。慎重というより、責任を負わずに賢く見せたい文の癖です。論点がセンシティブなほど、留保を重ねるのではなく、どこまでを事実、どこからを判断として書くかを切り分けるべきです。
「例えば、ある病名が別の表現に、あるいはある職業がより一般的な呼称へと置換されることで」
ここで具体例を出したふりをして、何ひとつ出していません。「ある病名」「ある職業」とぼかした瞬間、この文章は現実から逃げています。実際の言い換え例、放送現場での処理、視聴者の受け取り、そのどれか一つでも見ていれば、こんな逃げ方にはならないはずです。
「この過程は、言葉の表現を調整する試みでありながら、同時に社会が向き合うべき課題を曖昧にする可能性を孕んでいたのです。」
一段落ごとに、きれいな総括文で包み直しすぎです。そのせいで文章が前に進まず、毎回「つまり社会は複雑である」に戻ってしまう。説明の途中で締めの顔をしないほうが、論旨はむしろ強くなります。
「その空白」「この『空白』」「空白が示すのは」「言葉の空白が、思考の空白とならないために」
「空白」を主象徴に据えるのは構いませんが、何度も手で指して「ここが象徴です」と教えすぎています。象徴は反復で深まることもありますが、この原稿では反復のたびに意味が痩せ、最後はスローガン化しています。一度だけ鋭く使うか、別の具体物に分散させるべきです。
「多様な価値観が共存する現代において、不適切な言葉遣いが引き起こす波紋は計り知れません。」
これは放送禁止語でなくても、SNS炎上でも、広告表現でも、学校教育でもそのまま使える文です。つまりこの題材である必然がありません。題材固有の摩擦、たとえば生放送の即時性、スポンサー、BPO的な空気、局内判断の曖昧さに触れないと、汎用の正論で終わります。
「より深い対話を促すものであってほしいと願っています。」
最後に「願っています」と置いた瞬間、書き手は批評の責任から降ります。これは結論ではなく人格の印象操作です。やさしく終えることで誠実さを演出していますが、実際にはいちばん言うべきことを言わずに済ませています。
残すべき核は、「放送禁止語は法そのものではなく、法と慣習と配慮と恐れが混ざって運用される」という視点です。改稿ではまず、象徴語の乱用をやめ、具体例を一つか二つに絞ることです。たとえば実際の言い換え、伏せ字演出、クレーム回避の処理を置き、そのディテールから制度の曖昧さを立ち上げるべきです。抽象的な総括は半分以下に削り、「空白」ではなく「誰が、何を、なぜ消したのか」を書いたほうが、この題材ははるかに強くなります。