ワタナベの妻(匿名希望)
毎月第二火曜日の朝は決まっていた。夫は玄関の低い靴棚に腰を下ろし、慣れた手つきで靴紐を結ぶ。その横顔には、特別な感情は浮かんでいないように見えた。妻は台所で麦茶の準備を終え、食卓にコップを二つ並べた。使い慣れた白い陶器のコップは、いつも同じ場所にある。朝日が障子越しに差し込み、部屋の隅々まで明るく照らす。特別なことなど何もない、いつも通りの火曜日だった。
病院までは車で十分ほどの距離だ。季節は初夏に差し掛かり、窓を開ければ生暖かい風が車内を抜けていく。夫は助手席に座ると、小さく息を吐いた。何年も通い続けた道のりは、妻の頭の中に深く刻まれている。妻はハンドルを握り、ゆっくりと車を発進させる。慣れた道順を辿りながら、頭の中では今夜の夕食の献立を考えていた。冷蔵庫に残っていた鶏肉と、畑で採れたばかりの茄子を使おうか。そんな他愛のないことを考える時間は、日々の小さな習慣となっていた。
病院の待合室は、いつもと変わらず静かだった。ざわめきのようなものはなく、それぞれの患者が自分の番を待つ。妻のスマートフォンが震えた。東京に住む長女からの着信だ。こんな朝早くから珍しい。妻は一瞬迷ったが、夫の隣に座る高齢の女性に会釈し、廊下に出て電話に出た。「もしもし」と小声で言った。
「お母さん、お父さんいる? ちょっと相談があって」長女の声は少し焦っているようだった。聞けば、職場で急な問題が起こり、夫の意見を聞きたがっているらしい。妻はスマートフォンの画面に表示された娘の名前を見つめた。いつもの、元気な声とは少し違う。妻は答えた。「今、病院よ」
長女は電話の向こうで息を飲む音が聞こえた。「えっ、何かあったの?」その声には、はっきりと動揺が含まれていた。妻は周りに人がいないことを確認し、さらに声を落とした。「いつもの定期検診。心配いらないわ」妻の声は努めて平坦に響いた。それは、日々のルーティンの一部であり、特別な出来事ではなかったからだ。
一瞬の沈黙の後、長女の声がわずかに高くなった。「言ってよ、そういうのは! なんで教えてくれないの?」妻は長女の言葉に、小さく眉を寄せた。怒っているのだろうか。責められているように感じた。しかし、妻には妻の言い分があった。妻は冷静に答えた。「あなたが毎月聞いてくれれば伝えるけど。私からわざわざ連絡することでもないでしょう」
長女はさらに何か言いたそうだったが、妻は続けた。「先月は次女に伝えたわ。あの子はちゃんと覚えていて、何かあったら連絡して、って言っていたから」長女は何も言わなかった。電話の向こうの空気が、わずかに重くなったように感じられた。妻は、情報というものが、まるで生き物のように、必要とする者の元へと向かうのだと考えていた。
診察室から夫の名前が呼ばれた。妻は長女に「じゃあね」とだけ言って、電話を切った。ポケットにスマートフォンをしまいながら、待合室に戻る。夫はもう診察室の中に入っていた。いつもと同じ椅子に座り、壁の時計を見上げた。短針は九時を指している。窓の外には、薄い雲がゆっくりと流れていた。
家族の間を巡る情報は、まるで手のひらの砂のようだ。握りしめようとすればするほど、指の隙間からこぼれ落ちていく。誰かにとって当たり前のことが、別の人にとってはまったく知らない出来事である。互いが持つ世界の形は、少しずつ、しかし確実にずれていく。それは誰のせいでもなく、ただそこに、存在しているだけのことだった。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。