進路アドバイザーの仕事は「本人が決める」を支えることだ、と思ってきた。
相談に来た学生に、答えを出してはいけない。情報を整理し、選択肢を並べ、考えるための場を作る。最終的に決めるのは本人。それが私の信条だった。キャリアカウンセラーとしての訓練も、現場での経験も、その原則を繰り返し裏づけてきた。
だが一人、忘れられない学生がいる。あの子を見送ったのは、「尊重」だったのか、「放置」だったのか。何年経っても、答えが出ない。
進路相談の現場で最も大切な原則は、答えを出すのは本人だ、ということだと思う。
アドバイザーは情報を整理する。業界の構造を示し、企業の特徴を並べ、本人の経験や関心を言語化する手伝いをする。そして「考えてみて」と言って送り出す。次の相談で、本人が少し輪郭のはっきりした言葉を持って戻ってくる。その繰り返しの中で、本人の中に答えが育つ。
「自分で決めなさい」。これは正しい。多くの場合、正しい。
だが正しさにも、副作用がある。
大学3年の秋だった。就職活動の相談に来た学生がいた。明るい子だった。よく笑う。だが笑い方に、どこか無理をしている気配があった。そう感じたのは、後から思い返してそう意味づけているだけかもしれない。わからない。
「何がしたいかわからないんです」と、その子は言った。
よくある相談だ。3年の秋、周囲が動き始める頃に、自分だけ取り残されている感覚。焦りと、焦っていることへの恥ずかしさ。そういうものだと思った。
選択肢を並べた。自己分析の方法を伝えた。「少し整理してみて。また来てね」と言った。
2回目の相談。まだ決まっていなかった。自己分析のワークシートを広げて、ところどころ埋まっていた。でも、言葉に力がなかった。「書いてみたんですけど、しっくりこなくて」。私は「焦らなくていいよ。みんなそうだから」と言った。
3回目。来なかった。
4回目も。
半年ほど経って、その学生が休学届を出したと聞いた。理由は複合的だったらしい。家庭の事情もあった。進路だけではない。私が何かしていれば防げた、というほど単純な話ではない、と思う。たぶん。
だが、3回目の相談が来なかったとき、私がしたことを思い返す。
何もしなかった。
「本人が来たいときに来る。それが主体性だ」。そう思った。相談室のドアは開けてある。来たければ来る。来ないなら、来ない理由があるのだろう。その判断を尊重する。それがアドバイザーの仕事だ、と。
だが、あの子は「来たくても来られない」状態だったのかもしれない。声を上げる力が、すでに残っていなかったのかもしれない。「何がしたいかわからない」という言葉の底に、もっと深い疲弊があったのかもしれない。
聞かなかった。察しもしなかった。
「尊重」の名の下に、手を引いていた。
このシリーズの他のエッセイを読んでいると、ほぼすべてが「介入しすぎるな」という方向を向いている。代わりにやるな。答えを出すな。本人の判断を奪うな。肩代わりではなく、肩を貸せ。
それは正しい。正しいのだが、「介入しない」ことが常に正しいわけではない。
肩を貸さないことが、見捨てることになる場面がある。
「自分で決めなさい」は、自分で決める力がある人に対してだけ有効な言葉だ。その力が残っていない人に「自分で決めなさい」と言うのは、溺れている人に「自分で泳ぎなさい」と言うのと、構造として同じだと思う。
サブシディアリティの原則は「上位は下位を奪うな」と言う。だが同時に、原典は「上位は下位を支えよ」とも言っている。「奪うな」の部分だけ切り取って信条にしていると、「支えよ」の半分が消える。私はたぶん、その半分を落としていた。
「やりすぎるな」は、正しい。
だが「やらなすぎた」ときの代償を、誰が語るのか。
あれ以来、ひとつだけ変えたことがある。
3回続けて相談に来なかった学生には、こちらから連絡するようにした。
「その後、どうですか」。たった一行のメールでいい。
押しつけない。状況を聞き出そうとしない。ただ、忘れていないことを伝える。「あなたのことを覚えている」と伝える。それだけだ。
ある先輩が、以前こう言っていた。「支えるとは、相手が戻ってこられる場所を残しておくこと。でも、場所を残すだけでは足りない。その場所がまだあることを、時々知らせることだ」。
これは「介入」だろうか。たぶん、そうだ。相手が求めていない接触を、こちらから行う。原則論に従えば、主体性の侵害かもしれない。
だが、声を上げられない人に「あなたが声を上げるのを待っています」と伝えることは、主体性を奪うことではないと思う。主体性を回復するための、小さな足場を差し出すことだと思う。
返信が来ないこともある。来なくてもいい。メールは届いている。「ここに、まだ場所がある」という情報だけは、届いている。
「尊重」と「放置」の間には、紙一重の境界がある。
私はあの学生に対して、その境界を「尊重」の側に引きすぎた。引きすぎたことに気づいたのは、もう手遅れになってからだった。
シリーズのタイトルは「肩代わりせず、肩を貸す」だ。19本のエッセイが「肩代わりするな」を語ってきた。だが、肩を貸すことすらしなかった場合、それは何と呼ぶのか。
私には、まだ名前がつけられない。
ただ、ひとつだけわかったことがある。
「見守る」と「見ているだけ」は違う。
見守るとは、手を出さないことではない。
手が届く場所に、いつづけることだ。
あの学生が今どうしているかは知らない。知る手段もない。ただ、もしどこかで元気にしているなら、それでいい。そして、もし元気でないなら——私がかけられなかった一本の電話を、誰か別の人がかけてくれていたらいい、と思う。
川瀬 智子