タケウチソウタ(高校生)
料理番組を見ていると、手順はいつも静かに前へ進む。油ははねすぎず、ソースは分離せず、焼き色は都合よくつく。画面の中では、失敗が起こる余地まで薄くならされている。けれど台所に立つと、レシピは一本道ではない。火が強すぎる、包丁が思ったより入らない、混ぜたはずの粉が底に残る。そこで急に必要になるのが、「この先で崩れたらどうするか」という説明だ。
料理番組が抜いているのは、単なる手間ではない。抜け落ちているのは、調理の途中にいくつもある分かれ道である。たとえば「中火で三分」と言われても、コンロの癖も、フライパンの厚さも、食材の量も家ごとに違う。同じ三分でも、まだ白い場合もあれば、もう危ない色のときもある。番組は手順を教えてくれるが、「遅れたとき」「進みすぎたとき」の処置はあまり映さない。その欠けた部分が、家の台所ではいちばん切実になる。
前にテレビで見た卵料理をまねしたとき、ぼくはそこで止まった。番組では、フライパンに流した卵がきれいにまとまり、端からするりと折りたたまれていた。ところが実際には、火が少し強かっただけで表面が先に固まり、中央は半端にゆるいまま残った。形を直そうとすると破れ、皿に移すころには別の料理みたいになった。必要だったのは「うまく包む方法」より先に、「崩れたときにどこを触るか」という話だった。
番組では、失敗は最初から存在しなかったように処理される。鍋の底に焦げが出た場面や、衣がはがれた瞬間は切られ、次のカットでは整った状態に戻っている。見ている側は、料理が上手な人ほど迷わないのだと受け取りやすい。
「ここで味が濃くなりすぎたら水を足す」「焼きすぎたら一度火から外す」
こういう一言が入るだけで、レシピは命令文ではなく、現場で使える案内になる。
実際の調理現場は、もっとせわしない。まな板は濡れるし、予定より早く火が通るし、切ったつもりの野菜の大きさはそろわない。家庭の台所では、材料を一度で量りきれないこともあるし、途中で呼ばれて手を止めることもある。つまり料理は、手順の再生ではなく、その場での修正を何度も含んだ作業である。失敗の描写がないと、料理から修正の技術だけが抜ける。 すると残るのは、きれいに成功した見本と、そこでつまずく視聴者の距離だけになる。
もちろん放送時間には限りがある。全部を細かく見せるのは難しい。それでも、完成した皿を並べる前に、どこで崩れやすいか、崩れたらどう立て直すかを少し差し込むだけで、番組の意味はかなり変わる。料理を成功例の展示として流すのではなく、揺れを含んだ作業として伝えること。そのほうが、見ている人は失敗を隠すより先に、対処を選べる。きれいな完成図より、途中で持ち直す場面のほうが、台所では長く役に立つ。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。