ある日の午後、健診結果説明の予約に、奥様だけがいらした。
「主人には言わないでください」
HbA1c が境界域で、糖尿病予備群と分かったその結果を、本人に伏せたいという相談だった。理由を伺うと、ご主人は数年前にうつ病を経験していて、健康診断の数値で気持ちが沈みやすい人だ、という。「私が食事を変えますし、運動も一緒にやります。だから、本人には知らせないでもらえませんか」。
私はその場で答えを出せなかった。「少しお時間をください」と申し上げて、後日改めてお話しすることにした。あの判断について、今も時々思い出す。
本人の体の話を、家族が先に聞き、本人に伝えない——これは、肩代わりだ。介護のためでも、心配のためでも、それは肩代わりだ。だが、その肩代わりは、悪なのか。それを決めるのは、誰か。
これが、医療現場のサブシディアリティの問題である。
「家族にだけ伝えたい」と願う動機は、いくつもある。
これらは全部、合理的な配慮に見える。けれど、合理的に見える配慮こそ、サブシディアリティが破綻する瞬間である。
「本人がショックを受ける」と判断したのは、誰か。「家族の協力が必要」と決めたのは、誰か。「本人は理解できない」とラベルを貼ったのは、誰か。すべて、本人ではない。本人の体の話を、本人を交えずに大人たちが決めている、という構図がそこにある。
1980年代まで、日本では「がんの告知は本人にしない」が標準だった。家族が真実を抱え、本人は最期まで知らないまま亡くなる。その時代を経験した医師たちは、本人より先に家族にすべてを伝えていた。本人を「守る」ためだった。
だが、1990年代以降、インフォームド・コンセントの考え方が広まり、状況は変わった。本人が、自分の体について最初に知る。それを基に、本人が治療を選ぶ。これが標準になった。
なぜ変わったのか。理由は単純である。自分の体の情報を、自分が最後に知る不条理に、人々が耐えられなくなったからだ。後から「家族と医師は知っていた」と気づいたとき、その人は何を思うか。「私だけ、知らされなかった」——この孤独は、病気そのものより、しばしば深く傷つける。
失われるのは、診断結果という情報だけではない。家族との信頼、医師との信頼、そして「自分のことは自分で決められる」という自尊感情そのものが、同時に剥がれていく。
行動経済学者のセイラーとサンスティーンは、2008年の著書『ナッジ』で「リバタリアン・パターナリズム」を提唱した。本人の選択肢を制限せずに、よりよい選択へとそっと押す設計である。臓器提供をオプトインからオプトアウトに変える、社員食堂で野菜を目立つ位置に置く、退職金の積み立てをデフォルトで開始する——これらは、自由を奪わずに、より長期的視点の選択を促す技術として広まった。
医療現場でもナッジは多用されている。健診結果に「要再検査」のスタンプを目立つ赤字で押す、リマインドメールを送る、家族にも結果を共有する仕組みをデフォルトにする——どれも善意の設計である。
だが、ナッジの怖さは、選択を促しているように見えて、実は選択肢を狭めていることがある点だ。サンスティーン自身が、後年の論考で「ナッジは透明であるべきだ」と書き直した。設計者が「あなたのためを思って」操作しているとき、本人がそれに気づける構造になっていなければ、ナッジは静かな肩代わりに変質する。
「あなたの健診結果、家族にも自動共有しますね」——これは便利な仕組みか、それとも本人不在の代行か。設計の小さな選択が、補完性の境界線を動かしている。
逆方向の難問もある。本人が「結果を聞きたくない」と言ったときである。
2005年のユネスコ「生命倫理と人権に関する世界宣言」は、「知る権利」だけでなく 「知らない権利」(right not to know) も人権の一部としている。遺伝性疾患の検査などで、結果を知ることが本人にとって耐え難い場合、知らないという選択を尊重する考え方だ。
これも、サブシディアリティの問題である。「本人のためを思って、伝える」のと、「本人の意思を尊重して、伝えない」のあいだに、医療従事者は立たされる。家族が「伝えてください」と言い、本人が「聞きたくない」と言う場合、誰の声が優先されるか。
答えは原則として明確である。本人の体の情報の扱い方は、本人が決める。本人が「知らない」を選ぶなら、それを尊重する。家族の不安を解消するために本人の意思を覆すのは、肩代わりが過ぎる。
ただし、本人が判断能力を失っている場合、未成年の場合、あるいは公衆衛生上の必要(感染症など)がある場合は、別の論理が立ち上がる。サブシディアリティは原則であって、すべてに同じように適用される機械式のルールではない。原則を持つこととは、原則を破る場面を、自覚的に選び取る責任を持つことでもある。
ここまでの議論を整理すると、医療現場における補完性の三層構造が立ち上がる。
第一層:医療側が代行できる領域(採血、検査、投薬、緊急対応)
第二層:医療側が情報を整理し、本人と家族が共に決定する領域(治療方針、検査の追加、生活改善)
第三層:本人だけが決められる領域(治療を受けるか拒否するか、どこまで延命するか、自分の体の情報を誰にどう共有するか)
この三層は、別の同僚(秘書)が職業現場について書いていた三層構造と相似形である。職業の違いを超えて、サブシディアリティの実装が同じ形をとる。
そして、第三層こそが、現代の医療倫理が最も注意深く守ろうとしている領域である。自分の体の情報を、自分が最初に知り、自分が誰にどう伝えるかを決める——この権利が崩れたとき、ナッジも、家族の善意も、医師の経験も、すべて肩代わりに変質する。
冒頭の話に戻る。「主人には言わないでください」。
私は数日後、奥様に改めてお伝えした。
「ご主人にお伝えします。ただし、お一人ではなく、もしご希望なら奥様もご同席ください。お伝えする言葉も、奥様と相談して、ご主人が受け取りやすい形を一緒に考えませんか」
これは、本人の知る権利を侵さず、家族の願い(支えたい)も無視せず、二人の関係に手を貸す方法だった。少なくとも、その時の私が辿り着いた方法だった。
当日、ご主人は奥様と一緒に来院された。結果を伝えた瞬間、表情がこわばった。だが、奥様が隣で「大丈夫、一緒に食事を変えていこう」と言った。ご主人は、ゆっくりとうなずいた。
あの瞬間、奥様は 「肩代わり」をしなかった。「肩を貸した」のだ。情報を本人より先に握って隠すのではなく、本人が知った瞬間の隣にいて、これからの食事の話を一緒に始める——その役割を選んだ。
医療従事者の私の役割は、奥様にその選択肢を提示することだった。「全部代わりに引き受ける」も「全部本人任せにする」もできた。だが、その間にもう一つ、「肩を貸す」という選択肢があることを、私が示せなければ、奥様は最初の善意のまま肩代わりに進んでいたかもしれない。
サブシディアリティは、選択肢を増やすことから始まる。
現場で答えに迷うたびに、私は自分にこう問う癖がついた。
あなたが今、肩代わりしようとしているそれを、本人と一緒にやるとしたら、どう変わるか。
たいていの場合、答えは「変わる」だ。少しだけ手間が増え、少しだけ時間がかかり、しかし関係は確実に深くなる。それが、医療における補完性の毎日の実践だと、私は思っている。
石川 健太郎