ソノダマリ(マンションポエム国際比較調査員)
四月、体育館の硬い椅子に座り、壇上の校長先生の式辞を聞いていた。「桜の便りが各地から届く今日この頃、皆さんは新たな学び舎の門を叩きます」と、その声はスピーカーを通じて、ややハウリング気味に響く。配布された式次第には、開会の辞、祝辞、来賓紹介、そしてまた祝辞と、型通りの文言が並ぶ。誰一人としてこの場に固有の言葉を発しない。ただ、定型をなぞるだけだ。
隣の高校生が、手元のスマートフォンの画面を密かに下腹部あたりで確認した。時間はまだ式辞の途中、桜の話が三度繰り返された直後だ。この無意識の動作こそ、雄弁だった。言葉は一方的に投下され、その全てが滑り落ちていく。なぜこうも似通った言葉ばかりが、毎年、場所を変えて再生されるのか。国際比較調査員の私にとって、この現象は観察に値する具体的な光景だ。
まるで「春の挨拶用テンプレート」が不可視のプロンプトとして存在するようだ。個々の感情や場の空気を削ぎ落とし、社会が「正しい」と見なす春の始まりを強制的に演出する。祝辞のなかの「皆さんの未来に幸多からんことを」という一節は、その場にいる誰の顔も見ていない。それは、誰もを傷つけない最大公約数であると同時に、誰の心にも届かない言葉の無力化に他ならない。断言する、その空虚さは現場に満ちている。
この紋切り型の言葉が醸し出すのは、新しい始まりへの漠然とした期待感だ。しかし、その力が会場の隅々まで染み渡っているかといえば、疑念が残る。形式だけが残り、実質が欠落している。国際的な視点から見ても、これほど季節の始まりが特定のフレーズで固められる例は稀有かもしれない。特定の誰かに向けられた言葉ではないからこそ、万人に向けられた言葉は、結果として誰にも届かない。
言葉は、記号以上のものだ。思考を形成し、感情を伝え、関係を構築する。この状況下で、私たちが本当に受け取るべきメッセージは、紋切り型の定型句の羅列ではない。それは、マイクの不調に一瞬眉をひそめた司会者の困惑や、来賓席で小さく咳払いをした男性の息遣いの中に、むしろ垣間見えるものだろう。壇上の人物は、祝辞を終え、深々と頭を下げた。会場からは、まばらな拍手が起こった。その拍手は、言葉の内容ではなく、時間の経過に対して送られているように聞こえた。
春の定型句は、空気を支配するのに、誰の記憶にも残らない。