子の宿題に、どこまで赤ペンを入れるか
——親のサブシディアリティ、毎日の練習

長男が小学校に入った最初の春、宿題プリントを前に、ふっと固まった私を覚えている。

平仮名の練習。「あ」「い」「う」を10回ずつ書いて、線からはみ出していたら直す。出来上がったプリントを机に戻したとき、長男は「ママ、見て」と私に手渡してきた。

私はそれを見た。「い」が一画目と二画目で離れすぎている。「う」のはらいが、まあ、はらいになっていない。直したくなった。先生に「丁寧ではないですね」と言われるのを想像した。手が、赤ペンに伸びかけた。

その瞬間、ふと止まった。これは、誰の宿題だろう

書いたのは長男。直すのは——私? 親が「代わりに上手にしてあげる」のは、親が成績を取りたいだけなのではないか。けれど、放置すれば「丁寧でない」と注意される。だから手を加える。だが手を加えれば、子は「自分のは下手」と学ぶ。学ぶ——何を?

宿題プリント1枚で、ここまで考えた。あれから10年が経つが、まだ毎週、似たような葛藤がある。

これはサブシディアリティの問題だ。決定権を、それを担うべき最も適切な手元——この場合、宿題をやっている本人——に留めること。けれど親は「ちょっと手伝う」「ちょっと教える」「ちょっと書き直す」を、日に何回もやれてしまう。やれてしまうから、毎回、判断を求められる。

一.「赤ペン」のグラデーション——4段階の介入

宿題への親の介入を、私はいつしか4段階に分けるようになった。

レベル1:環境を整える(机、ライト、消しゴム、静かな時間帯)
レベル2:ヒントを出す(「漢字、思い出せない? どこで習ったっけ?」)
レベル3:一緒に考える(「ママも分からない。図に描いてみよう」)
レベル4:答えを書いてあげる(「もうやっておくから、晩ご飯食べちゃって」)

レベル4まで降りたら、それはもう親の宿題だ。子の宿題ではない。けれど、子が泣いて、〆切が今夜で、明日学校で困るのが目に見えていると、レベル4に手が伸びる。これが日常だ。

正解は、たぶん「子の年齢と疲労度に合わせてレベル1〜3のあいだで揺れる」だ。だがその「揺れ方」を、誰も教えてくれない。

二.全部やってあげると、何が起きるか

正直に書く。私自身、長男が小学2〜3年のとき、夏休みの自由研究や読書感想文を「ほぼ全部レベル4」でやってしまった時期がある。本人が机の前で固まっているのを見ていられず、私が下書きし、子が清書する。先生は「上手に書けたね」と花丸を返してきた。

ある日、長男が前の年の感想文を本棚から引っ張り出してきて、なんとなく読み返していた。そして、ぽつりと「これ、ほんとに僕が書いたんだっけ」と言った。本気の問いではない。半分笑い話のような口調だった。けれど私は、その問いの軽さに、かえってぞっとした。代わりにやってあげたつもりが、本人の輪郭をうっすら削っていた

これは、別の同僚が秘書の現場について書いていた「肩代わりが過ぎると、本人が消える」と、まったく同じ現象だ。子は表面的に「上手」と扱われる。けれど本人の中では、自分が何を理解していて何を書けたのかが、だんだんぼやけていく。後で困るのは、本人だ。

これは グッドハートの法則の家庭版でもある。「成績」を測定対象にすると、成績は上がる。けれど「学び」という名目上の目的は、しばしば置き去りになる。

三.全く手を貸さないと、何が起きるか

逆もまた、ある。「自分でやりなさい」の一辺倒。

これは表面的には自律を尊重しているように見える。けれど、子が泣いていても突き放すなら、それは尊重ではなく放置だ。「分からない」と訴える子に「自分で考えなさい」だけを返すと、子は「分からないと言ってはいけない」を学ぶ。これもまた、別の形で本人が消える。

サブシディアリティの原則は「上位は奪わない」だが、同時に「上位は支える」でもある。介入しないことが正解ではない。支えるが、奪わない。これが原則だ。

二歳の子が転んだとき、抱き上げて運んでしまえば、立ち上がる練習ができない。けれど、泣いている子の前で「自分で立ちなさい」と腕を組むのも、違う。たぶん正解は、近づいて手を差し伸べて、子の手のひらが親の手に触れた瞬間、軽く支えながら、立つ動作は子に任せること。これが「肩を貸す」だ。

四.親が代わりにできない3つのこと

15年子育てして、いまの私が思う「親が絶対に代わりにできないこと」が、3つある。

  1. 学ぶ作業——理解は、本人の脳の中でしか起きない。教えることはできるが、理解することは代行できない。
  2. 失敗から学ぶ経験——失敗を回避してあげると、回避された分、本人は「失敗との付き合い方」を覚えない。
  3. 自分の意見を持つこと——「ママはこう思うよ」は言えるが、「私はこう思う」は本人にしか言えない。

この3つに親が手を出すと、子は表面的に楽になり、長期的に弱くなる。逆に、この3つを子の手に残しておけば、宿題プリントの「い」が下手でも、長期的には大丈夫だ、と私は思っている。

五.自動採点AIと、親の役割の再定義

最近、子の宿題まわりに、AIが入ってくるようになった。

学校が導入したタブレットの算数アプリは、解答を入れると即座に丸付けして、間違えたら類題を出してくる。子が一人で延々とやれてしまう。便利だ。

だが、ここでも線引きの問題が立ち上がる。AIは正誤を判定する(レベル4の代行)。けれど、なぜ間違えたのかを子と一緒に考える役(レベル3)は、AIにはまだ難しい。「ここがしんどかったね」と労わる役(レベル2の中の感情ケア)も、AIには空白だ。

つまり、AIが入ってくることで、親の役割が「丸付け」から「気持ちのケア」と「考え方の伴走」に再定義されつつある。私は、これは良い変化だと思っている。AIに丸付けを譲ることで、親が本来やるべき「肩を貸す」仕事に時間を使える可能性がある。

ただし、それは「AIが代わりにやってくれる」ことに親が安心しきって、子の隣にいる時間そのものを減らさなければ、の話だ。AIが代わってくれた時間で、親もスマホを見ていたら、子の隣には誰もいなくなる。そのとき子はまた、私が前に書いた「忘れられた感」を覚える。

終章.隣で本を読む親

私が今、心がけているのは、宿題を見るとき、自分も本を読むことだ。

子が机に向かっている横で、私は私の本を読む。子が「ねえ、ここ分からない」と言ってきたら、本を伏せて、隣に来る。「どれどれ」と覗き込み、ヒントを出すか、一緒に考えるか、その場で判断する。出さない場面のほうが、たぶん多い。子は「ふーん」と独り言を言いながら、また机に戻る。

これは「無関心」ではない。私は本を読みながら、子の姿勢、ため息、消しゴムの音をちゃんと聴いている。けれど、見張ってはいない。見守っているが、覗き込んではいない。これが、今のところ私が辿り着いている「肩代わりせず、肩を貸す」の家庭版だ。

サブシディアリティの原則は、こんな小さな日々の選択の中にしか、本当には宿らないのかもしれない。机に向かう子の横で、自分の本を伏せるか、もう少し読み続けるか。その小さな判断の積み重ねが、子が「自分の宿題は自分のもの」と思える人生を作るか、「誰かが代わりにやってくれるもの」と思う人生を作るかを、分けていく。

赤ペンに伸びかけた手を、私は今でも止める。10年前と同じだ。たぶん、これからもずっと、止め続ける練習をする。

松本 陽菜