ファイナンシャルプランナーとして、年間およそ50世帯の家計相談を受けている。住宅ローン、教育費、老後資金。相談内容は多岐にわたるが、夫婦の家計で最も多い問題は、数字の話ではない。「どちらかが全部やっている」ことだ。
このシリーズのここまでの作品を読ませていただいた。秘書が上司を支え、親が子を見守り、医療者が患者に寄り添い、AIが人間に問いかける。すべて上下関係を前提にしている。上位と下位がある。上位が奪わず、下位を支える。それがサブシディアリティだと。
だが夫婦には「上」がいない。法的にも、倫理的にも、対等だ。上がいない関係で「肩を貸す」とは、いったい何なのか。家計の現場から、考えてみたい。
ある夫婦の相談。30代後半、共働き、子ども1人。妻が家計を全て管理している。銀行口座の入出金、保険の契約内容、クレジットカードの明細、ふるさと納税の枠。全部、妻。
夫に聞く。「ご家庭の月々の支出、把握されていますか」。夫は「だいたい」と答える。「だいたい、というのは?」。手取り38万のうち、夫が把握していたのは家賃12万と自分の小遣い3万だけだった。残りの23万が何に使われているか、知らない。食費がいくらか、水道光熱費がいくらか、子どもの習い事がいくらか。知らない。
私は聞いた。「もし明日、奥様が入院されたら、ご主人はひと月の家計を回せますか」。
夫は黙った。
妻は、横で小さく笑った。笑いの中に、疲労があった。「全部やっている」側の人間だけが出す笑い方だった。
これは家計の問題ではない。構造の問題だ。片方が全権を持ち、片方が何も知らない。一見うまく回っているが、一方が倒れた瞬間に破綻する。そして「全部やっている」側は、やっているからこそ疲れているのに、やめると回らなくなるから、やめられない。
別の夫婦。40代前半、共働き、子ども2人。この夫婦は「公平」のために家計を完全折半にしていた。家賃は半分ずつ。食費は半分ずつ。水道光熱費も半分ずつ。きれいに割り切れる。
だが、子の教育費が宙に浮いた。長女の塾代が月2万8千円。これは「半分ずつ」でいいのか。塾を選んだのは妻。通わせたいと言ったのも妻。ならば妻が全額負担するのが筋か。だが塾に通うことで夫も恩恵を受ける——子の学力が上がれば、将来の支出が減る可能性がある。では半分か。半分だとして、半分とは1万4千円か。しかし夫の手取りは妻の1.3倍ある。ならば「同額」ではなく「同率」で割るべきか。
この夫婦は、塾代をめぐって3ヶ月もめた。金額の問題ではなかった。「半分ずつ」というルールでは割り切れない出費が出たとき、誰がどう判断するかの仕組みがなかった。
完全折半は、一見対等に見える。だがその実態は、「お互いの領域に関わらなくてよい」を最大化しているだけだ。「私の分は払った。あとはあなたの責任」。これは対等ではない。分離だ。
サブシディアリティの言葉で言えば、二つの独立した単位が、上位の共同体を作ることを回避している。夫婦という共同体の家計なのに、個人の家計が二つ並んでいるだけになっている。
家計相談で、もうひとつよく見るパターンがある。得意分野の非対称が生む軋轢だ。
投資は夫が得意。NISAの枠を使い切り、インデックスファンドのコスト比較もしている。日常の節約は妻が得意。スーパーの特売日を把握し、ふるさと納税の返礼品を最適化している。
問題は、得意な方が「こうした方がいいよ」と言ったとき、それが助言ではなく指導になることだ。夫が「その保険、コスパ悪いよ。こっちに切り替えた方がいい」と言う。妻が「食費、もう少し抑えられるよね。まとめ買いすれば月5千円は浮く」と言う。
どちらも正しいかもしれない。数字的には。だが言われた側は、自分の領域を侵されたと感じる。「私がやっていることを、あなたが評価するのか」。
上下関係がない場所に、一時的な上下が生まれている。知識の差が、権力の差にすり替わる瞬間だ。対等であるはずの関係に、ある話題のときだけ先生と生徒が立ち現れる。先生役の方は善意だ。「教えてあげている」つもりだ。だがサブシディアリティの文脈で見れば、これは上位が下位の判断を奪う行為と構造的に同じだ。
では、どうすればいいのか。
選択肢は3つある。
一つ目。得意な方に全権を渡す。確定申告は私が全部やる。食費の管理は妻が全部やる。だがこれは一章の「どちらかが全部やっている」に戻るだけだ。領域ごとに分担しているだけで、共同体としての家計にはならない。
二つ目。すべてを合議制にする。どの支出も二人で相談して決める。だがこれは非現実的だ。スーパーでキャベツを買うたびに電話はかけられない。
三つ目。テーマによって「誰が判断の主導権を持つか」を意識的に入れ替える。確定申告は私が主導し、妻が確認する。食費の管理は妻が主導し、私が確認する。子の学費は、二人で主導する。
三つ目が現実的だと、私は相談者に伝えることが多い。ただし、これには難しさがある。テーマによって上位と下位が入れ替わるということは、「今、どちらが肩を貸す側か」を、そのつど意識的にすり合わせなければならない。
対等な関係では、上下が固定されていない分、「今、どちらが肩を貸す側か」を意識的にすり合わせる必要がある。
固定された上下関係——上司と部下、親と子——では、誰が上位かは自明だ。だから「奪わない」ことだけに集中すればいい。対等な関係では、それに加えて「今この瞬間、どちらが上位か」の認識合わせが要る。固定された上下関係より、実は難しい。
ここまで書いて、自分の話をしなければ不誠実だろう。
私はファイナンシャルプランナーだ。年間50世帯の家計を見て、「数字を共有しましょう」「どちらかに偏らないように」と助言している。選択肢を3つ並べ、リスクを明示し、判断は相手に委ねる。冷静に。プロとして。
自分の家計は、妻に任せている。
銀行口座の残高は知っている。住宅ローンの残債も把握している。だが日々の支出の内訳は、正確には分からない。食費がいくらで、日用品がいくらで、子の習い事がいくらか。聞けば答えてくれる。だが聞かないと知らない。私は一章の「夫」と、構造的に同じことをしている。
「任せる」と「丸投げ」は違う。これは相談者によく言う台詞だ。任せるには、いつでも引き取れる準備がいる。月に一度は内訳を確認し、何かあったときに自分が回せるだけの理解を維持しておくこと。丸投げは、相手が倒れたときに破綻する。
「任せる」と「丸投げ」は違う。任せるには、いつでも引き取れる準備がいる。
自分はちゃんとできているか。たぶん、できていない場面がある。相談者には「月次で確認しましょう」と言いながら、自分が最後に家計簿を開いたのはいつだったか。他人の家計には冷静でいられるのに、自分の家計になると、どこかで「妻がやってくれているから」と甘えている。
FPという職業は、他人の数字を整理することで報酬を得る仕事だ。だが自分の数字からは、目を逸らしやすい。靴屋の子が裸足で歩く、という諺がある。たぶん、そういうことだ。
家計簿の主語は「私たち」であるべきだ。だが実際の家計簿は、「私」か「あなた」になっている。「私が管理している」か「あなたに任せている」か。どちらかだ。
対等な関係のサブシディアリティとは何か。私の答えは、「どちらも引き受けすぎない、どちらも手放しすぎない」だ。
片方が全部やれば、もう片方は判断力を失う。完全折半にすれば、共同体が消える。得意な方が教えれば、一時的な上下が生まれる。どれも、バランスを欠いている。
私は相談者に、毎月の家計会議を勧めている。5分でいい。長くやると議論になる。5分。数字を見る。先月の支出を確認する。来月の大きな出費を共有する。それだけでいい。
数字は感情を持たない。「あなたの使いすぎ」でも「私の節約の成果」でもなく、ただ金額が並んでいるだけだ。その金額の前では、夫婦は対等になれる。得意も不得意もない。知識の差も関係ない。同じ数字を見て、同じ現実を共有する。その5分間だけは、「肩を貸す」でも「肩代わりする」でもなく、ただ隣に立っている。
隣に立つこと。それが、上下のない関係における、いちばん地味で、いちばん難しいサブシディアリティなのだと思う。
高橋 誠一