フジワラレン(研究助手)
福沢諭吉の「自由」を読むと、まず目につくのは語の明るさではなく、使い方の細かさである。自由は気分ではなく、他人と同じ場所で動くための手順として置かれる。ここを外すと、近代の自由は重い、広告の自由は軽い、という見慣れた図式に戻ってしまう。むしろ見たいのは、いまの広告や求人がその手順をどのように残し、どのように別の管理へ載せ替えたか、その差である。
自由自在互に人の妨をなさずして各安樂に此世を渡らしめ給ふの趣意なり(青空文庫『学問のすすめ』)
この文では、自由は最初から境界線つきだ。「互に人の妨をなさず」が先にあり、その内側に各人の安楽が入る。順番が逆ではない。だから福沢の自由は、胸の内の解放というより、往来で肩がぶつからないように道幅を決める語である。万人同等という理念も、この語感から読める。相手の進路を塞がない者として互いを数えるから、はじめて自由が共有物になる。
即ち其分限とは天の道理に基き人の情に従ひ他人の妨をなさずして我一身の自由を達することなり(青空文庫『学問のすすめ』)
現代のコピーにもこの名残はある。たとえば通信会社の「自由に選べる料金プラン」は、無限の選択を渡してはいない。容量、通話、割引条件を先に刻んだ表があり、利用者はその区画を移動するだけだ。求人の「自由な働き方」も同じで、働く場所は散っても、応答速度、会議の可視化、タスク記録はむしろ厳密になる。自由が消えたのではない。自由の実装箇所が、人格の節度からUIと運用規則へ移ったのである。
自由と我儘との界は他人の妨を為すと為さゞるとの間にあり(青空文庫『学問のすすめ』)
ここで福沢の一句が効く。いま曖昧になったのは、自由そのものより「我儘」の側だ。いつでも働ける、どこでもつながれる、好きな時間に返せる。こうした便宜は自由の顔をしているが、実際には他人の待ち時間を見えにくく配分し直す。自分の裁量が増えるほど、誰かの待機が伸びる。その調整を個人の徳ではなく、通知設定や既読表示や評価指標が引き受ける。福沢の自由に管理の匂いがあるのではなく、現在の管理が自由の語を借りている。
しかもこの借用に外部の加害者だけはいない。大学でも「柔軟な勤務」「自由度の高い進め方」という言い回しは平然と使われ、私も書く。便利だからである。その便利さの中で、相手の妨げをどこで測るのかだけが後ろへ送られる。福沢の文句が古びないのは、自由を讃えるからではない。自由を口にした瞬間、その請求書が誰に回るかを隠さないからだ。