健診結果通知書のポエム
——「要経過観察」という保留語

※本エッセイはすべて創作です。登場する通知書文面・医療機関・出来事はすべて架空のものであり、実在のいかなる個人・組織とも関係ありません。

実家の冷蔵庫の磁石の下に、二つ折りの紙が一枚、はさまっていた。

父の健診結果通知書だった。日付は1998年。私が中学生のときのもの。判定欄に、青いインクの判子で「要経過観察」とだけ押されていた。何の項目が引っかかったのかは覚えていない。父の体は、その後も大きな病気はしなかった。それでも、その紙は冷蔵庫から離れなかった。引っ越しのときに引き出しの底に移り、また別の引き出しに移り、二十数年、家のどこかに居続けた。

母に聞いたことがある。「これ、なんで取ってあるの」。母は少し考えて、「捨てられないのよ」とだけ言った。「もう関係ない数字なのは分かってるんだけど、要経過観察ってあるとね、観察を切っていいのか分からなくて」。観察、を切る。その言い方を、私はずっと覚えている。

健診結果通知書は、患者を不安にさせず、しかし責任を果たすために、注意深く設計された言語空間である。判定の階段、主語の消し方、時制の逃げ方、数値と文章の二重底——この紙が患者の手元に長く残る理由は、医療側の親切とも、患者側の心配性とも、別のところにある。言葉そのものが、捨てさせない作りになっている

一.保留語の階段

多くの健診結果通知書は、判定区分を5段階に切ってある。表記は機関によって少しずつ違うが、おおむねこうである。

A:異常なし
B:軽度異常(経過観察不要)
C:要経過観察
D:要精密検査
E:要治療

5段階は、数値の連続を5つの箱に切り分けた、行政的な階段である。だが患者にとってはそうではない。5つの箱には、それぞれ別の体温がある

Aは温かい。読んで終わる。Bは少し冷たい。だが「経過観察不要」の括弧書きが、すぐに体温を戻す。Eは、もはや体温を測る暇もなく、病院の予約を取りに動く。

問題はCとDである。CとDのあいだに、薄い、しかしはっきりとした断層がある。

Cの「要経過観察」の通知書には、たとえばこう書いてある。

今回の検査結果では、軽度の数値変動が見られましたが、現時点で直ちに医療機関への受診を要する状態ではありません。生活習慣の見直しと、次年度の健康診断時に再度の確認をお勧めします。

Dの「要精密検査」になると、別の文体が立ち上がる。

今回の検査結果につきまして、より詳しい検査が必要と判断されました。お早めに医療機関を受診し、専門医にご相談ください。なお、本通知書を医療機関にご持参いただくと、検査がスムーズに進みます。

Cは「お勧めします」。Dは「ご相談ください」。一文字の違いではなく、行動の温度が違う。Cでは、来年まで待っていい。Dでは、今週か来週には電話を入れる。言葉が、患者の予定表に直接、線を引いてくる

Cの「要経過観察」が患者の引き出しに長く残る理由は、ここにある。Dなら病院に行って結果が出れば、紙は役目を終える。Aなら最初から捨てられる。Cだけが、行動の指示を持たないまま、家のなかで一年待つ。来年の健診まで、ただ観察される。観察するのは、誰か。

二.主語の消去

通知書の文面を、もう一度よく見てほしい。

生活習慣の見直しと、次年度の健康診断時に再度の確認をお勧めします。

誰が、お勧めしているのか

主語がない。日本語は主語を省ける言語である。だがこの省略は、文法の都合だけで起きていない。「お勧めします」と書いた瞬間、勧めたのが誰なのかを答える義務が、書き手の側に発生する。検査をした医師か。判定を出した検査技師か。通知書を発行した健診センターか。あるいは、健診を委託した会社の人事部か。誰が勧めたかによって、勧められた側の対応は変わる。

主語を空けておけば、読み手が勝手に主語を埋める。「専門家が勧めているのだろう」と。権威を借りつつ、その権威の正体は名指ししない——これが、通知書の文体の中核にある操作である。

類例はいくらでもある。

生活習慣の改善が望ましいと思われます。

「望ましい」と思っているのは誰か。「思われます」と書く瞬間、思っている主体は完全に消える。受動的な印象だけが残る。「望ましい状態がそこに浮かんでいる」かのように、書かれている。

再検査をご検討ください。

「ご検討」は、決定権を患者に渡しているように見える。だが、検討した結果「やらない」を選んだ場合、責任は誰にあるか。患者である。主語を消した勧誘文は、決定の重さだけを患者に渡す。検査をしないという選択を、患者が自分で選んだことになる。

通知書の文面は、誰も勧めていない言葉で、患者を勧誘する技術の集積である。

三.時制の逃げ

主語の消去とセットで動くのが、時制の操作である。

将来的な生活習慣病のリスクが懸念されます。中長期的な健康管理の観点から、食生活の見直しをお勧めします。

「将来的」「中長期的」。今ではない。だが、いずれ来る。「今はまだ大丈夫」を、裏で言っている。今は大丈夫だが、放っておくと駄目だ、と。今のことなら患者は動かないかもしれない。だが、将来のことになると動く——少なくとも、引き出しの底に紙を残す程度には動く。

時制の遠さは、責任の遠さでもある。「将来的に」と書いた瞬間、書き手は予言者ではなくなる。当てが外れても、予言ではなく「懸念」だったと言える。当たっても、「だから言ったでしょう」とは言わない——通知書の語彙には、そういう勝ち誇りの単語が一切入っていない。

もう一つ、時制の逃げの典型がある。

現時点では治療を要する状態ではありませんが、引き続き経過観察が必要です。

「現時点では」が、ほぼ全ての通知書に入っている。これがあると、患者は「今は安心」と「いずれ安心ではなくなるかもしれない」を同時に受け取る。安心は短期、不安は長期。安心の賞味期限のほうが、不安の賞味期限より、ずっと短い

父の通知書の冷蔵庫の磁石は、二十数年動かなかった。「現時点」は1998年だった。母にとってその「現時点」が、いつ切れたのかは、最後まで分からなかった。たぶん、明示的に切れた瞬間はなかった。観察は、終わりを告げる側の声を持っていない。

四.数値と文章の二層構造

通知書の紙は、左半分と右半分で、文体が違う。

左には数値が並んでいる。LDLコレステロール 142 mg/dL(基準値 60-119)、HbA1c 6.0%(基準値 4.6-5.5)、ALT 38 U/L(基準値 7-30)——数字、単位、括弧書きの基準範囲。括弧の外に出た数字には、太字や、ときに赤い帯が引かれている。

右には文章がある。

脂質代謝に軽度の所見が認められました。バランスのとれた食生活と、適度な運動習慣を心がけていただくことをお勧めします。

左は冷たい。右は温かい。同じ事実について、二つの体温で語られている。

このとき、責任は分散される。数値が言ったことを、文章が和らげる。文章が言わなかったことを、数値が補う。「LDLコレステロール 142」と書いてあれば、後で「危険な数値だと聞いていない」とは言えない。「軽度の所見」と書いてあれば、患者がショックで眠れなくなったとは言われない。両方を出すことで、医療側はどちらの苦情にも応えられる構えになる。

数値だけの通知書を想像してほしい。

LDLコレステロール 142 mg/dL(基準値 60-119)
判定:要経過観察

これだけだと、患者は数字の前で立ちすくむ。基準値を23超えているとはどういうことか。明日から何が変わるのか。文章がないと、数字は誰にも対応する仕方を教えない。

逆に、文章だけの通知書も想像できる。

脂質代謝に軽度の所見が認められました。生活習慣の見直しをお勧めします。

これだと、患者は「軽度」の重みを測れない。同じ「軽度」が、明日心筋梗塞を起こす人にも、十年後に何も起きない人にも、同じ顔で渡される。文章だけだと、軽度なのか軽度でないのかが、患者の側で再構成できない。

だから両方が要る。数値で殴って、文章で撫でる。撫でる文章があるから、殴る数値が許される。殴る数値があるから、撫でる文章が嘘にならない。二層構造は、責任の分散装置であると同時に、患者を立ったまま受け止めさせる支柱である

五.書き手の朝

去年の春、私は自分の健診結果通知書を開けた。

朝、台所で、コーヒーをいれたところだった。封筒を開けて、判定欄まで目を走らせた。「D:要精密検査」と書いてあった。項目は伏せておく。

湯気の立っているコーヒーカップを、いったん持ち上げて、また置いた。湯気は、すこし向きを変えただけで、止まらなかった。止まったのは、私の手のほうだった。

すぐに、職業の癖が動いた。文面を読みに行く。「より詳しい検査が必要と判断されました」——主語の消去、ここにもある。「お早めに医療機関を受診し、専門医にご相談ください」——「お早め」の幅。今週か。今月か。「なお、本通知書を医療機関にご持参いただくと、検査がスムーズに進みます」——医療機関の業務効率と、患者の不安が、同じ一文に収まっている。

分析している自分の手のひらを、もう一方の手が触った。冷たかった。私はこの分野の文体を読み解く仕事をしている人間で、健康管理アドバイザーで、5段階の判定区分の意味も、主語の消去の機能も、時制の逃げの構造も、すべて分かっていた。それでも、紙の右下に、もう一行、何も書かれていない余白があるのを見たとき、その余白に「だが、もう間に合わないかもしれません」と書かれていなかったのは、医療側の善意なのか、それとも単に、書かないことが、書くことより、もっと多くを言ってしまうからなのか、と一瞬、本気で考えた。

プロの語彙は、自分の身体には届かない。届くのは、文面ではなく、湯気の止まり方の方である。

後日、精密検査を受けた。結果は、要観察。判定は、Cに戻った。私の引き出しには、Dの紙とCの紙が、二枚並んで入っている。

六.観察の終わり方が、書かれていない

父の冷蔵庫の磁石の下の紙に戻る。

あの紙が二十数年動かなかったのは、母が心配性だったからではない。通知書という文書が、自分で自分の役目を終える設計になっていないからだ。

「要経過観察」と書かれた紙には、観察の解除条件が書かれていない。次年度の健診で異常なしになれば、自動的に古い紙は無効になる——とは、明示的には書かれていない。「現時点では」「中長期的には」「将来的には」と保留語を重ねた紙は、いつ「もう関係ない」になるのかを、紙の側からは告げない。

告げないから、捨てられない。捨てない紙は、家のなかで観察を続ける。観察は、本来、医療側の動詞だったはずである。だが紙が手元にある以上、観察の主語は患者の側にも流れ込む。「観察を切っていいのか分からない」——母の言葉は、文書の構造そのものを、たぶん正確に言い当てていた。

言葉の柔らかさが、患者の身体の固さを、正確には映さない。「軽度の所見」「将来的なリスク」「お勧めします」——どれも、棘が抜いてある。だが、棘の抜かれた言葉と、書かれた側の人は、長く付き合うことになる。冷蔵庫の磁石の下、引き出しの底、別の引き出しの底。家のなかで、紙はそうやって、観察される側から観察する側へ、ゆっくりと移動する。

父の紙は、母が亡くなった年の片づけのときに、私が引き取った。捨てなかった。今、私の引き出しの、Dの紙とCの紙の隣に、Cの紙の三枚目として入っている。私もまた、観察を切るタイミングが分からない。たぶん、これからも分からないままだろう。観察は、終わりを告げる側の声を持っていない。

書き手・イシカワケンタロウ(健康管理アドバイザー)

本サイトの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。イシカワケンタロウは架空の書き手です。