ワタナベ
いつもの席。いつもの新聞。いつもの朝。隣に座ったのが、いつもと違った。
窓際の奥。自分の席。新聞を広げていた。
隣に誰か座った。気配で分かる。見なかった。新聞を読んでいたから。
ちらりと見た。バスケ部のジャージ。高校生だ。男の子。スマホを見ている。指が速い。若い指だ。
孫と同じくらいの年齢だろう。孫はサッカー部だが。
ページをめくったとき、折り目がずれた。新聞が床に落ちた。
拾おうとした。高校生のほうが速かった。
「はい」。差し出された。
「ありがとう」
「いえ」
それで終わるはずだった。
終わらなかった。なぜだろう。自分から話しかけた気がする。
「学生さん?」
「はい、高1です」
「部活?」
「バスケ部です。補欠ですけど」
補欠ですけど。「ですけど」がいい。照れているのか。卑下しているのか。どちらでもいい。正直だ。
自分も会社では補欠みたいなものだった。エースではなかった。エースの隣で、ずっと働いていた。補欠は長く続く。エースより長く続くこともある。言わなかったが。
名古屋の話になった。どういう流れだったか。覚えていない。
高校生が言った。
「名古屋って何もないっすよね」
笑った。声に出して笑った。コメダで声を出して笑ったのは久しぶりだ。
「何もないがある」と答えた。
自分でもよくわからないことを言った。でも、そう思っている。名古屋には何もない。何もないがある。うまく説明できない。説明できないことを、説明しなくていい相手に言った。
高校生が驚いた顔をした。
「……それ、知り合いの変な大人と同じこと言う」
変な大人。誰だろう。
聞かなかった。聞く必要がない。知らない人だ。でも同じことを言う人がいるらしい。「何もないがある」と。
その人も名古屋に住んでいるのだろうか。コメダに来るのだろうか。新聞を読むのだろうか。
たぶん違う。変な大人、と高校生が言ったから、たぶん自分とは違う種類の人だ。でも同じことを考えている。
不思議なことだ。知らない人と、同じことを考えている。
高校生は小倉トーストを注文した。
来た。食べ始めた。大きな口で食べた。あんこがはみ出た。指で拭った。指を舐めた。
若い。食べ方が若い。
自分はトーストを半分に割って、小さく食べる。あんこがはみ出ないように食べる。いつからそうなったか。覚えていない。昔は大きな口で食べていたはずだ。
孫とは違う。孫には遠慮がある。こちらも遠慮がある。お互い、家族だから遠慮する。知らない高校生には遠慮がない。向こうも遠慮がない。
遠慮がないのは楽だ。
高校生はスマホを見て、「あ、やべ、練習」と言った。立ち上がった。「失礼します」と言った。「やべ」と「失礼します」が同居している。若い。
「頑張って」と言った。
「ありがとうございます」
出ていった。ジャージの背中。番号は見えなかった。
名前を聞かなかった。高校の名前も聞かなかった。聞く必要がなかった。もう会わないだろう。会わなくていい。
新聞の続きを読んだ。読めた。さっきまでと同じ新聞だ。同じ記事だ。でも少し違う気がした。何が違うかは分からない。
新聞を落とした。
拾ってくれた。
「ありがとう」「いえ」。
「名古屋って何もないっすよね」
「何もないがある」
「変な大人と同じこと言う」
小倉トーストを大きな口で食べた。
あんこがはみ出た。指を舐めた。
名前も聞かなかった。
もう会わない。それでいい。