クライショウゴ(57歳・計量士33年)
営業中のスタンドの一台に「点検中」の札を掛け、私は基準タンクを積んだ検査車をそのレーンに寄せる。基準タンクは、内側に目盛りを刻んだ金属の容器だ。給油機のノズルを突っ込み、二十リットルと表示が出るまで実際にガソリンを流す。重さの秤なら天板に分銅の塊を載せれば済む。だが油は、流して、溜めて、目盛りを読むしかない。私が三十三年抱えてきた分銅は、ここでは役に立たない。
流し終えたら、目盛りを読む。液面は容器の壁ぎわで吸い上げられ、中央が窪む。あの窪んだ面の底——メニスカスの底を読む。目の高さを液面にぴったり合わせ、上からでも下からでもない、真横から覗き込む。少しでも目線が斜めなら、目盛りは違う数字を指す。私は腰をかがめ、息を止めて底を読む。三十三年やっても、ここだけは新人と同じ姿勢になる。
だが読んだ数字は、そのままでは合否にならない。ガソリンは温まれば膨らみ、冷えれば縮む。夏の昼に量る一リットルと、冬の朝に量る一リットルでは、入っている分子の量が違う。だからタンクに温度計を挿し、油の温度を見て、十五度のときの体積に換算する。メニスカスの底で読んだ生の数字を、夏と冬の差だけ巻き戻す。その補正後の値が公差に収まって、初めて私は合格と言える。
誤差が公差を超えていたら、不合格だ。給油機の側板を開けると、流量計の出口に校正用のリングがある。緩み止めの小ねじを外し、専用のレンチでリングを送る。半目盛りで、二十リットルあたり数十ミリリットルが動く。私はリングを送り、側板を閉じ、もう一度二十リットルを流して読み直す。温度を測り、巻き戻し、公差を見る。合格するまで、流して、読んで、また送る。重さの秤で脚の下に紙を噛ませたのと、やっていることは同じだ。
合格したら、そのリングに鉛の封印を打つ。細い針金を通し、鉛の粒を専用の鋏で潰して、私の刻印を残す。これは「ここに触るな」という印だ。封が打ってある限り、その給油機の正しさは私が裏書きしている。逆に、次の検査で封が切れていたら、それだけで検定は無効になる。誰かがリングを動かしたかもしれないからだ。鉛の小さな粒の中に、前回の私と今回の私が繋がっている。
札を掛けたレーンの隣では、客の車がひっきりなしに出入りしている。給油し、レシートを抜き、走り去る。誰も、私がタンクに何を流しているのか見ていない。みな、表示の一リットルを疑わずに払って帰る。その流れのほんの隙間で、私は腰をかがめ、メニスカスの底を読み、温度を巻き戻している。同じ油を、客は買うために流し、私は確かめるために流す。隣り合って、別の時間が回っている。
近ごろのスタンドは、セルフが増えた。ノズルを握るのは店員ではなく客自身だ。給油機が一リットルを正しく数える前提で、無人のまま釣り銭が落ちる。前提のほうは、誰かが裏で確かめておかねば成り立たない。だから無人のスタンドにも、鉛の封は打ってある。封が切れていないか、次の検査で私が見る。人がいなくなった分だけ、封が代わりに立っている。
分銅では、塊を載せた。給油機では、油を流した。載せる重さと、流す体積。同じ日に違うはかりを診て、私はまた検査車に基準タンクを積み込む。タンクの内側には、さっき読んだメニスカスの濡れた跡が、目盛りの一つに薄く残っている。