公園のベンチに、ふたりで腰かけている。少し離れた砂場で、わたしの息子と、その人の娘が、それぞれ別の山を作っている。たまにすれ違って、ちょっと見て、また自分の山に戻る。
「ナナちゃん、絵がじょうずですね」とわたしが言う。
「いえいえ、ぜんぜん。うちはまだ。ハル君のほう、こないだのお絵かきの作品、すごかったって、先生が言ってましたよ」
「あ、いやいや、あれは、たまたまで。うちはずっと不器用で」
「不器用って、いいですよ。手の動きがゆっくりなのは、たぶん、考えながら描いてる証拠だから」
「そう言ってもらえると、すごく、ありがたいです」
砂場のほうで、ナナちゃんが、山のてっぺんに枝を一本、ぴんと立てた。
母親同士の会話には、定石がある。
相手の子供のことを、まず、褒める。「お利口さんですね」「やさしい子で」「字がきれいで」「絵がじょうずで」。何かしら、見たもののなかから褒めるところを見つけて、口に出す。
褒められた側は、たいてい、ふっと、謙遜する。「いえいえ、家ではぜんぜん」「うちは、ほんとうに、ふだんは」「これはちょっと、たまたまで」。
すると、褒めた側は、たたみかけるように、もう一段、肯定で返す。「そんなことないですよ」「家でぜんぜんって、それは、外で頑張ってる証拠ですよ」「不器用は、考えてる証拠」。
謙遜を、相手は、かならず、もう一段の肯定で返してくる。これが、定石。
「これはちょっと」と謙遜したとき、わたしは、半分、本気で、半分、定石として、それを言っている。
息子の不器用さは、本当に、家のなかで、しょっちゅうハラハラする。けれど同時に、相手から「不器用は、考えてる証拠」と返してもらえることを、わたしは、たぶん、待っている。
待っている、ということを、わたしは、自分でちゃんと知っている。
そして、相手が、その待っているものを、ちゃんと差し出してくれる——それが、定石。
ふっと、頭のうしろのほうで、別の声が立ち上がる。
これは、定石だ。
ナナちゃんのお母さんも、わたしも、台本に書かれている台詞を、なぞっている。お互いの子供を褒めて、相手が謙遜したら、もう一段褒める。台本があることを、お互いに知っている。台本に従っていることも、たぶん、知っている。
それなのに、わたしは、「不器用は考えてる証拠」と返してもらった瞬間、すこし、うれしい。
うれしい、という感情は、台本に書かれている。けれど、わたしのなかで起きるその「すこし」は、たぶん、本物だった。
本物だった、ということが、ちょっと、わからなくなる。
砂場のほうで、ナナちゃんが、山の脇に、もうひとつ小さな山を作りはじめた。息子は、自分の山に、トンネルを掘ろうとして、何度か失敗している。掘っては崩し、掘っては崩し。
定石、と気づくことが、その定石を、安っぽくする、わけではない。たぶん。
ナナちゃんのお母さんは、わたしが「これはちょっと」と言ったとき、わたしの声のトーンを、たぶん、聞いていた。半分、本気で、半分、待っている、その「半分」を、聞き分けていた。
聞き分けて、もう一段、肯定で返してくる。それは、台本のことばを使った、別の伝達だった。
「あなたが、待っているのを、わたしは、聞きました」「あなたの息子は、ちゃんと、わたしから、見えています」「わたしは、あなたが、自分の息子を、いとおしいと思っているのを、知っています」。
定石のおもてでは、子供の話をしている。定石のうらでは、母親が母親に向かって、こういう薄いメッセージを、ぱらぱらと、渡している。
「あ、定石で来てくれたな」と、わたしが思った瞬間に、その定石は、もう、配慮の側に、ふっと、滑り込んでいる。
わたしは、それを、知っている。知っていても、滑り込ませることを、止めない。止めようとも思わない。
定石を、定石として、ちゃんと使ってくれた、ということが、もう、配慮だから。
定石を、台本どおりに、ちゃんと、引き受けてくれる人。決まった音を、決まった順番で、ちゃんと出してくれる人。それは、たぶん、信頼に、いちばん近い形のひとつだった。
「そうだよね」と、わたしは、声に出さずに、頭のうしろのほうで、ちいさく、頷く。
砂場で、息子が、ようやく、トンネルを開通させた。「お母さん、見て、見て」と、こちらに駆けてくる。
「ハル君、すごい」と、ナナちゃんのお母さんが、わたしより先に言ってくれた。
「いやいや、たまたまで」と、わたしは、また、定石を始める。始めながら、自分でも、ちょっと、笑ってしまう。
夕方の光のなか、ふたりの母親が、定石を、もう一巡、する。子供たちの頭のうえに、それが、薄く、積もっていく。
積もっていることに、ふたりとも、たぶん、気づいている。気づいていることに、たぶん、お互いに、気づいている。気づいていることに気づいている、ということに、たぶん、お互いに、気づいている。
それでも、定石を、もう一巡、する。
それでいい。たぶん、それが、いちばん、いい。
「お利口さんですね」「いえいえ」「いやいや」「いいですよ」。
四音、五音、四音、五音。決まった音のリズムが、夕方の公園に、薄く、続いている。続いているあいだ、わたしの息子は、ナナちゃんから、たぶん、守られている。ナナちゃんは、わたしから、たぶん、守られている。守るために、定石が、要るのだった。
本作は単発エッセイ。母親同士の会話には、相手の子供をまず褒め、謙遜には必ずもう一段の肯定で返す、という定石がある。「これはちょっと」と謙遜する側も、半分は本気、半分は定石として言っている。返ってくる肯定が、台本どおりだとわかっていても、なぜか、すこし、うれしい。定石、と気づくことが、その定石を、安っぽくするわけではない。台本を、ちゃんと台本どおりに引き受けてくれる人、というのは、信頼にいちばん近い形のひとつだった。「定石で来てくれたな」と思った瞬間に、その定石は、配慮の側にふっと滑り込む。守るために、定石が、要る。子供たちの頭のうえに、決まった音のリズムが、薄く、積もっていく。