ソノダマリ(マンションポエム国際比較調査員)
マンションの玄関の前に、Amazonの段ボールが二つ置かれていた。私のではない、隣の三〇五号室の。上に黄色い正方形の付箋が貼ってあった。ボールペンの手書きで「卵、買っておきました。マルキュー」。マルキューは、たぶん近所のスーパー丸久のことだ。配達員の名前は書いていなかった。
三〇五号室は、二十代後半のシングルマザーと幼稚園の子どもの世帯だ。私とは廊下で挨拶程度の関係。配達員が「卵を買っておいた」というのは、注文した品ではなく、配達員の判断で買い足したものだ、ということだ。卵切れの世帯を、配達員が知っていた。あるいは、母親が「次に来る時、卵もお願い」とアプリのメモか何かに残していた可能性もある。
翌週、私のマンションの一階の郵便受けの上に、別の置き配の段ボールが置かれていた。今度の付箋は赤いマーカーで「ベランダの植木に水やっておきました」。送り先のラベルは見えなかったので誰宛か分からない。植木に水を、というのは、配達員の越境ではないか、と一瞬思った。同時に、それは置き配文化の中の小さな新しい儀礼として、定着しつつあるのかもしれない、とも思った。
置き配は、二〇二〇年のパンデミックで本格化した。それ以前、配達員と受取人は対面で挨拶していた。「ご苦労様です」「お疲れ様です」の短い言葉が、玄関先で交わされていた。置き配によって、その対面の挨拶が消えた。同時に、配達員の側に書く欄が生まれた。付箋という、紙の上の小さな挨拶が、対面の音声を置き換えた。
私自身は、まだ自分宛の段ボールに付箋が貼られたことはない。私はマンションの郵便受けの隣に「置き配OK、付箋不要」と書いたシールを貼っていない。それでも、配達員が私を「付箋を貼らない方の住人」と判定しているらしい。三年間、付箋は来ない。隣の三〇五号室には来る。私と彼女のあいだに、配達員から見える何かの差がある。
その差を、私はうっすら知っている気がする。彼女は、玄関のインターホンで「いつもありがとうございます!」と声をかけるタイプの住人だ。私はインターホンを取らない、もしくは「はい」とだけ答える住人だ。配達員は、声の方を覚えて、付箋を貼るかどうかを決めている。
来週、私は配達員のインターホンで「いつもありがとうございます」と言ってみるだろうか。たぶん、言わない。観察者として、付箋の来ない方の側に居続ける選択を、私はもう何年もしている。