木曜の午後、ふらっと寄った。15時半からの講演会。タイトルに惹かれた——「『人間の尊厳』とオペレーションズ・リサーチ:効率性、平等性、公平性」。OR——制約下の最適化を扱う応用数学の領域に、なぜ「尊厳」がつくのか。それが気になった。
登壇者は航空ネットワークの数理最適化を専門とする方だった。冒頭、誰でも知っている古典から入った。
「長さ1kmのビーチに、2人のアイスクリーム屋を置く。客は均等に分布している。さて、彼らはどこに店を構えるか」
答えは「両方とも中央」。互いに少しずつ追い越そうとして、結局ど真ん中に並ぶ。一方、社会全体の総移動距離を最小化したければ、1/4と3/4に分散させればよい。客の総移動距離は半分になり、最も遠い客の歩数も半分になる。
「個人の合理性は、集団の最適性を保証しない」
ここまでは経済学やORの入門書に必ず出てくる話で、私も何度か聞いたことがある。だが、聞きながら、この先にあるいくつかの「ひっかかり」が連鎖して落ちてきた。帰り道に整理しておこうと思って、手帳にメモした。
最初に思い出したのは、「3軒目を入れた瞬間に均衡が消える」という事実だった。1929年にHotellingが論文を出したとき、彼自身が、競争者が3人以上いる場合の不安定性を示唆していたという。3人目が入ると、純粋戦略のナッシュ均衡は存在しない。誰かが必ず両隣を出し抜きに動き、配置が落ち着かない。
教科書はこの警告を削って、「2人なら合理性ゆえに中央集中する」とだけ伝える。だが本当の含意はもっと不穏だ。競争者がたった一人増えるだけで、「均衡」という概念そのものが崩壊する。ORの結論は、パラメータが少し変わるだけで質的に反転することがある。「最適解が存在する」という安心感は、私たちが設定したモデルに固有の話で、現実のわずかなずれが解そのものを消し去ることがある。
ここに、最初のうろこが落ちた。
次に思い出したのは、Downsの中位投票者定理(1957)だ。これはホテリングの数式を、有権者の政治的立場に置き換えただけのものだ。二大政党は、政策的に中央に収束する——両端の票を捨ててでも、中央の浮動票を取った方が勝てるからだ。
米国の両党が「結局どっちも似たような中道」になる現象、英国の労働党と保守党がブレア時代以降中央に収束した現象——これらは「政治家が腑抜けたから」ではなく、選挙制度に固有の数学的帰結である。
そして、その帰結として、両端の有権者——熱心に何かを変えてほしいと思っている人々——の声は、構造的に代弁されない。中央を取りに行く競争に、両端は出てこない。
ここで気づく。「アイスクリーム屋」は隠喩ではなく、同じ数式の別の現れ方だ。海岸の端の客が長く歩かされる構造と、政治的両端の有権者が代弁されない構造は、同じ数学が支配している。
ここで講演の流れから少しずれて、私はもう一つの疑問を抱いた。実際のアイスクリーム屋は、中央に集中しているのか?
していない。商店街の端、駅前、住宅街、観光地——むしろ最大限に分散している。なぜか。
D'Aspremontら(1979)はこう示した。価格を内生的に決めるモデルでは、ホテリング均衡は存在しない。業者は価格競争を避けるために最大限差別化することを好むからだ。「中央に寄る」は、価格を固定したときだけ成立する結論だった。Salop(1979)の円環モデルも、業者が等間隔に分散することを示した。
これが三つ目のうろこだった。目的関数に何を入れるかで、結論は反転する。「客の移動距離だけ」を入れれば中央集中、「客の費用(価格×距離)」を入れれば最大分散。同じ「合理性」という言葉が、何を目的に置くかで真逆の答えを出す。
ORの第一の問いは「最適解は何か」ではない。「何を最適化するのか」だ。
ここで私の頭は2026年に戻った。
今、世に出ている大規模言語モデル——LLMたち——は、なぜどれも似たような出力をするのか。なぜ、ある会社のモデルと別の会社のモデルの応答が、しばしば区別がつかないのか。
理由の一つは、まさにホテリングだ。各社のモデルは似たデータで訓練され、似た選好評価(RLHF)で調整される。「広く受け入れられる」ことが目的関数になれば、出力は人間の好みの中央値に収束する。少数言語、少数派の倫理観、極端に専門的な知識——これらは「需要が薄い」がゆえに、訓練段階で重みが下がり、出力段階で削られる。
21世紀の「ビーチの端」は、空間の端ではなく、知の分布の端にある。マイナー言語の話者、ニッチな問いを持つ研究者、標準的でない感性を持つ書き手——彼らはAIから、構造的に「遠い」場所に置かれる。
ここで気づく。1929年の数式が、2026年のAI均質化を説明する。同じ数学が、海岸と知性の両方を貫いている。
講演は最後、ORに倫理を組み込む話に至った。効率性(Efficiency)だけを最大化すれば外れ値は切り捨てられる。公平性(Equity)を入れる方法は技術的にはある——重み付け、最大値最小化(maximin)、Gini係数の最小化、Rawls的な最不遇者最大化、などなど。
だが、技術より深い問いがそこにある。「公平」とは何か、を誰が決めるのか。
ORが「総距離最小化」を暗黙の目的関数に置いた瞬間、すでに「全員の距離を平等に重視する」という規範的決定をしている。「総コスト最小化」を置けば、「コスト構造で人を測る」ことを是認している。目的関数の選択は、技術的選択に見えて、実は倫理的選択だ。それを「自然な選択」「客観的選択」だと信じた瞬間に、暗黙の倫理を隠蔽している。
ここに最後のうろこが落ちる。ORに倫理を入れるとは、後付けで規範を語ることではない。最初から、目的関数を選ぶこと自体が倫理的行為だ。
会場を出て、夕暮れの街を歩きながら、いくつかの像が重なって見えた。
これらは別々の現象ではない。同じ数式が、別の場所で繰り返されている。1929年に書かれた論文が、2026年の社会のあちこちで再演されている。私たちは、ホテリングの中で生きている。
そしてこの構造を解くのは、新しい数式を発明することよりも、目的関数を共同で書き直すことにあるのではないか——影響を受ける人々を、その作成段階で対話に招き入れること。これは効率の追求と相反するように見えて、実は長期的な持続可能性の条件だと、私には思えた。
「人間の尊厳」がORにつく理由は、たぶんここにある。尊厳とは、目的関数の中に書き込めない残余ではなく、目的関数を誰と一緒に書くか、を問う作業のことだ。書く人を絞れば、絞られた人を対象化したモデルが出来上がる。書く人を広げれば、計算量は増えるが、見える人が増える。
これは、まさに サブシディアリティ の問題でもある。決定は、その影響を受ける単位の手元に留めること。上位の最適化が下位を呑み込まないこと。「肩代わりせず、肩を貸す」——これが21世紀のORに必要な作法だ、と私には思えた。
最後に、登壇者の問いを自分の言葉で書き換えてみる。
あなたの最適化は、誰を見ていますか。
そして、誰を見ていませんか。
ふらっと寄った木曜の午後に、これだけのうろこが落ちる講演はそうない。コーヒーが冷めているのに気づき、私はこのメモを走り書いた。次に均衡を計算するときに、自分が誰を視界に入れているのか、自分に問えるように。
藤原 蓮