「代わりにやる」の境界線
——秘書という職業から見たサブシディアリティ

私は秘書を15年やっている。仕事の半分は「代わりに」だ。代わりにメールを書く、代わりに電話を受ける、代わりにスケジュールを組む、代わりに丁重にお断りする、代わりに相手の機嫌を取る。

このシリーズに「肩代わりせず、肩を貸す」というタイトルを聞いたとき、私は最初、自分には書く資格がないと思った。こっちの仕事は文字通り肩代わりですよ、と。

けれど、しばらく考えて、思い直した。肩代わりを職業にしている人間こそ、その境界線を一番よく見ている。どこから先は代わりにやってはいけないか、どこまでは代わってあげるべきか。秘書の毎日は、その線引きの集積でできている。

たぶん、サブシディアリティ——上位は奪わずに支える、決定は最も適切な手元に留める——という原理を、私は職業として実演している。意識せず、毎日。

一.秘書の一日は、線引きで埋まっている

朝、メールを開く。Aさんからの会食打診。これは私の判断で「いつもの三軒のどこかで来週木曜」と返してよい——上司は会食先より日程を気にする人だから。Bさんからの取材依頼。これは判断保留。「確認のうえ追ってご連絡します」と返す——上司の判断領域。Cさんからの講演依頼。これは断ってよい——基準がもう決まっている(今期は受けない、と上司が春に決めた)。

たぶん毎日30通ほどのメールに対して、30回これをやっている。ほぼ無意識だ。けれど書き出してみると、全部「代わりにやる/やらない」の判断だった。

新人に教えるときに、いつも気づく。新人は最初、全部「上司に確認します」と返す。これでは秘書がいない方が早い。逆に少し慣れた新人は、全部「私の判断で」と返す。これは越権だ。良い秘書は、この間にいる。間にいる、ということを職業として続ける。

二.「適当に返しておいて」と言われたとき、私が分けるもの

上司が、ある面倒なメールを転送してくる。短い添え書き——「適当に返しておいて」。

ここで秘書が問うべきは、「適当」の中身である。

外から見れば、全部「秘書が代わりに返事した」だ。だが内実は違う。何を代わりにやり、何を代わりにやらないかを、秘書は瞬間的に分けている。

これを混ぜると、おかしなことが起きる。事務メールに上司本人が個人的署名を入れすぎると、儀礼が重くなる。立場表明を秘書が独断で書いて出すと、後で取り返しがつかない。線引きを誤ると、組織は鈍くなり、信頼は揺らぐ。

三.「代わりに考える」だけは、してはならない

線引きの中でも、絶対に超えてはいけない一線がある。「代わりに考える」だ。

スケジュール調整は代わりにやれる。メール返信は代わりにやれる。会議室の予約も、出張の手配も、お土産の選定も、代わりにやれる。けれど、上司が今、何を悩み、何を決めるべきかを、代わりに決めてはいけない

なぜか。代わりに決めると、上司は決める力を失う。これは比喩ではない。私は3人の上司に仕えてきたが、秘書に決定を任せきった上司は、例外なく自分で決める力を錆びさせた。最初は楽になったように見える。けれど数年後、本人が「自分は何がしたいか分からなくなった」と漏らす。

肩代わりが過ぎると、本人が消える。これがサブシディアリティの逆を実演した結果だと、私は思っている。

四.秘書という職業の三層構造

振り返ると、秘書の仕事は三層に分かれている。

第一層:完全に代わりにやってよいこと(事務処理、ルーティン応答、調整作業)
第二層:私が下準備し、本人が最終決定すること(重要な返事、人事案、出席判断)
第三層:私は触れず、本人が考えるべきこと(戦略、価値観、人生の選択)

第一層を本人にやらせ続ける組織は、優秀な人材を浪費している。第三層に秘書が踏み込む組織は、本人を空洞化させている。ちょうどよく層を分けて、ちょうどよく担当を入れ替えること。これが、サブシディアリティの職業的な実演だ。

カトリック社会教説の「補完性原理」(subsidiarity)は、上位の単位は下位を支えることはあっても、その役割を奪ってはならない、と言う。秘書の仕事は、向きこそ逆——下位の私が上位の上司を支える形——だが、原理は同じだ。奪わずに、支える

五.AIは肩代わりするか、肩を貸すか

ここ数年、私の仕事の様相は変わった。AI 秘書補助ツールが、私のかなりの作業を代わりにやってくれる。メール下書き、議事録要約、スケジュール候補抽出、出張の比較見積もり。

便利だ。けれど、ある違和感がある。AI は層の境界線を知らない。第一層も第三層も、同じトーンで「代わりに整えておきますよ」と提案してくる。

AI が「適当に返しておきますね」と提案してきたメールを、私はもう一度読み直す。これは事務メールか、立場表明か、価値観の問題か。AI には分からない区別を、私は秘書として知っている。だから、AI のドラフトを採用する/しないの判断が、私の新しい仕事になっている。

AI もまた、「肩代わりするツール」と「肩を貸すツール」のあいだを揺れている。設計者がどちらに振るかで、ユーザーが残るか、ユーザーが消えるかが決まる。私の職業観から言うなら、良いAIは、ユーザーの判断力を錆びさせない。下準備は手伝うが、最後の決定は人に返す。

終章.肩代わりが過ぎると、本人が消える

秘書の仕事を15年続けて、いちばん大事だと思うようになったのは、「やらない」を選ぶ判断力だ。

代わりにやれるからといってやってしまうと、本人が育たなくなる。本人が育たなくなると、組織が傾く。組織が傾くと、結局、私の仕事も無くなる。だから、秘書として優秀であろうとすればするほど、私は「やらない」を選ぶ場面が増えていった。

これは、サブシディアリティの最も実践的な定義だと思う。肩代わりを生業とする人間が、肩代わりしない選択をできる場面を、ちゃんと持っていること

「肩を貸す」は、英語で言うなら lend a shoulder。文字通り、貸すのだ。返すことが前提だ。代わりに持つのではなく、自分で立つ間だけ、傍らにいる。

代わりに返事を書きながら、代わりに考えはしない。秘書という職業の矛盾を、私は今もそうやって生きている。たぶん、サブシディアリティの倫理を毎日実演している人間は、案外と多いのではないか。介護士も、教師も、編集者も、医療通訳も、コーチも、ホスピスのチャプレンも。皆、職業として「代わりにやる」を引き受けながら、ある一線を絶対に越えないように歩いている。

その一線がどこにあるかを、もっと言葉にしていきたい。それが、このシリーズの中での私の役割なのだろう。

桐島 美咲