父の塩分制限
——介護施設の、別の檻

※本エッセイはすべて創作です。登場人物・施設・出来事はすべて架空のものであり、実在のいかなる個人・組織とも関係ありません。

父が好きだったラーメン屋は、駅前の路地裏にあった。

創業40年を超える店で、看板の字はかすれ、暖簾は煮干し油の匂いで茶色くなっていた。父は現役時代、そこの中華そばを週に二度は食べていたと思う。醤油の濃い、少し黒ずんで見える汁の表面に、薄切りのチャーシューとメンマと、刻んだ長ねぎが載っていた。父はレンゲで汁をすくい、必ず「いい出汁だ」と言った。私はその横で、半分残すのが常だった。父は残さなかった。最後の一滴まで、飲んだ。

70歳で脳梗塞をやり、左半身に少し麻痺が残ってから、父のラーメン屋通いは止まった。止めたのは父ではなく、母だった。母は父の血圧計の数字を恐れていた。上が160を超えると、朝食の味噌汁の椀を一つ減らした。ラーメン屋は、自宅から500メートルの距離にあるのに、父は一度も行かなくなった。

父が特別養護老人ホームに入所する1週間前、私は父を車に乗せてその店に連れて行った。母には黙って、だ。父は店の椅子に腰を下ろすのに時間がかかった。中華そばを一杯、父の前に置いた。父は汁をすすって、一言、「変わらんな」と言った。嬉しそうにも、懐かしそうにも、聞こえなかった。ただ、変わらんな、とだけ言った。そして汁を、最後まで飲んだ。

あれが、父のラーメンの最後だった。

一.ナトリウム1日6グラムまで

入所説明会は、施設の2階の会議室で行われた。

栄養士は40代くらいの、細身で、眼鏡のブリッジを何度も上げ直す癖のある女性だった。A4の用紙に、父の栄養管理計画が印刷されていた。総カロリー1,600kcal、タンパク質60グラム、ナトリウム6グラム以下、水分1,200ミリリットル。数字は美しく揃っていた。

「お父様の腎機能を考えると、ナトリウムは1日6グラムまでに抑えたいんです」。栄養士の声は柔らかかった。「塩分を控えめにすることで、血圧の乱高下を防げますし、心臓への負担も軽減できます。データ上、こうした制限をしっかり守られた方は、寿命が平均で1.8年ほど延びるという報告もあります」。

1.8年。数字は強かった。父の主治医も同席していて、頷いていた。私も頷いた。頷くしかなかった。施設の側に、何の落ち度もなかった。栄養士は誠実だった。計画書は理にかなっていた。父を長く生かすための、設計だった。

帰りの車の中で、助手席の母が言った。「よかった。ちゃんと管理してくださる施設で」。母の声は、本当に安堵していた。私も「うん」と答えた。その「うん」は、嘘ではなかった。しかし、全部でもなかった。

ひとつだけ書いておくと、妹からは、施設の選定の段階で「お兄ちゃんに任せる」と言われていた。妹は隣の県で小さな子を育てていて、週末に実家に戻れる距離ではなかった。私は、任されていた。

二.「これは…薄いな」

入所から3週目の土曜日、初めての面会に行った。

面会室は、施設の1階の奥にあった。椅子は事務用のパイプ椅子で、座面が冷たかった。面会の時間は昼食の配膳と重なっていて、職員が父の昼食トレイを運んできた。私は、父のベッドサイドではなく、食堂の端のテーブルに同席させてもらった。

トレイには、白身魚の蒸し物と、青菜のおひたしと、豆腐の味噌汁と、白米が載っていた。味噌汁の湯気は、ラーメン屋のそれよりも、ずっと弱かった。表面に油の膜はなく、具の豆腐の白さが、汁の色に溶け込まずに浮いていた。

父はスプーンを震える右手で持ち、味噌汁を一口、すすった。

そして、言った。

「これは…薄いな」

声は小さかった。私を責める響きはなかった。呟きに近かった。しかし、その6文字は、面会室の空気を一瞬止めた。私は、何も言わなかった。父は、それ以上何も言わなかった。ただ、スプーンを置いて、そのまま味噌汁の椀を遠ざけた。白米は、半分ほど食べた。白身魚は、ほとんど残した。職員が「お父さん、今日もよく食べられましたね」と、父より大きな声で言った。

父は、もう、何も答えなかった。

三.駐車場で、手が震えていた

面会を終えて、施設のロビーで、栄養士に会った。

「お父様、お食事の方はいかがでしたか」。栄養士は笑顔で聞いた。私は「ええ、ちゃんと食べていました」と答えた。喉の奥で、「もう少し、塩を入れていただくことは」という言葉が動いた。動いて、止まった。

「もう少し塩を」と言った瞬間の、栄養士の笑顔を、想像してしまったからだ。笑顔の角が、ほんの一瞬だけ硬くなる。0.5秒くらいの、ごく短い硬化。すぐ戻る。しかし戻ったあとも、ああ、この人はお父様の腎機能より、お父様の口の味を優先したいご家族、というラベルが、この栄養士の手帳の中のどこかに、貼られる。その0.5秒と、貼られるラベルを、私は想像した。想像したまま、口を閉じた。

駐車場まで歩き、車のドアを開け、運転席に座った。エンジンをかける前に、ハンドルを握った手が、震えていることに気づいた。震えは5分ほど続いた。車を出せなかった。

家に帰って、妻に、その日の父の様子を話せなかった。「元気そうだったよ」とだけ言った。妻は「よかったね」と答えた。その夜、私は一人で酒を飲んだ。父に塩を持って行くべきだったのか、それとも、施設の計画に従うのが家族の役割なのか、どちらもわからなかった。妻に相談しなかったのは、「持って行けばよかったのに」と言われるのも、「それは駄目よ」と言われるのも、どちらも耐えられなかったからだ。判断を、宙に吊ったままにした。

四.計算式を、途中で消した

私はファイナンシャルプランナーだ。家計相談の現場で、効用という言葉を使う。期待余命、QOL、医療費の長期最適化。生命保険の保障額を決めるときも、介護費用の試算をするときも、この語彙を、冷静に、職業人として、使う。

あの夜、酒を飲みながら、スマホのメモアプリを開いた。

「父の延命効果 1.8年(栄養士)」とまず打った。次の行に、「QOL係数 0.──」と打ちかけて、止まった。小数点のあとの数字が、出てこなかった。

いや、出そうと思えば出る。5段階のリッカートに置き換えて、ラーメンの汁を飲めない1年を係数0.7とでも置いて、延命1.8年を掛ければ、NPVめいた数字が出る。試算として、一応は、できる。

指が止まったのは、別の理由だ。父のQOLに小数点を打った瞬間、私は父を見る目を、他人の家計相談の目に切り替えようとしていた。冷静に。プロとして。選択肢を並べて。リスクを明示して。判断を相手に委ねて——。この視線を父に向けた瞬間、視線の向こうで父が、もう父ではない、何か別のものになっていた。

メモアプリを消した。画面を伏せて、テーブルに置いた。効用という言葉は、私の商売道具だ。他人の家計では使える。自分の父の塩の話になると、最初の小数点で転んだ。転んだ私は、計算式を完成させずに、画面を消す家族、として酒を飲み続けた。

五.施設は、正しかった

施設は、正しかった。

ナトリウム1日6グラム以下は、父の腎機能と心機能に照らして、医学的に正しい設計だった。栄養士は嘘をついていなかった。父が施設で過ごした1年4ヶ月、目立った体調の崩れはなかった。むしろ、入所前の在宅の半年間よりも、数字上の状態は安定していた。施設がなかったら、父はもっと早く逝っていたかもしれない。

そして、父は施設に入ってから、食事の時間に、笑わなくなった。

いや、笑わなくなった、は正確ではない。職員の冗談には笑っていた。孫が面会に来れば、目を細めていた。しかし食事のスプーンを持つ手が、機械的になった。白身魚を口に運び、青菜を口に運び、白米を口に運ぶ。汁物は、最後まで残すことが増えた。

父にとって食事は、作業になっていた。延命のための、作業。

この二つは、同時に成立していた。施設は正しく、父は笑わなかった。矛盾ではない、と説明しようと思えばできる。トレードオフという言葉を使えば、きれいに並ぶ。しかしきれいに並んだ二つの文の間で、父は、食事から何かをもらえない1年4ヶ月を過ごした。その何かは、「楽しみ」と書いてしまうには、もう少し地味で、もう少し、父の身体に染み込んでいた類のものだった。

黒ずんだ汁の色と、煮干しの油の匂い。「いい出汁だ」という一言。レンゲを最後まで返す動作。それらを全部ひっくるめた、父のある種の時間。1.8年の延命では、買い戻せない種類の時間。

六.母が、小さく言ったこと

入所から2ヶ月が経った夜、母から電話があった。

用件は、施設への持ち込み品の相談だったと思う。話の途中で、電話の向こうで母が、少し黙った。そして、小さく言った。

「私、やりすぎたかしらね」

何を、と聞かなくても、わかった。血圧が160を超えるたびに味噌汁の椀を減らしてきた15年間のことだった。ラーメン屋に行かせなかった5年間のことだった。塩を隠し、醤油を薄め、漬物を切り詰めた、毎日の食卓のことだった。

私は「そんなことないよ」と答えた。答えてから、それが嘘だと自分で気づいた。母も気づいていたと思う。気づいていたが、二人ともそのまま電話を切った。母の「やりすぎたかしら」は、以後、一度も、母の口から出なかった。

母は、父の塩分を15年間取り上げた人だった。私は、施設に1年4ヶ月、父の塩分を任せた人だった。取り上げ方の長さが違うだけで、やっていたことは、同じ種類だったのかもしれない。

七.父用の塩の小袋

父が逝ったのは、入所から1年4ヶ月目の、5月の朝だった。

肺炎だった。塩分制限とは関係のない、別の原因だった。施設から電話を受けたのは明け方で、私は駆けつけたが、間に合わなかった。病院に運ばれる前に、父は施設のベッドの上で静かに息を引き取っていた。職員が、父の手を温かいタオルで拭いてくれていた。その丁寧さに、泣きそうになった。泣かなかった。

葬儀が終わり、実家の片付けに戻ったのは、1週間後だった。母が、台所の引き出しから、小さなビニール袋を取り出して、テーブルに置いた。

「お父さんの、特別な塩」

母は、そう言った。入所前、父が自分で買ってきていた、瀬戸内の岩塩の小袋だった。母が減塩食を作り始めてから、父はこの塩を自分用に買って、台所の引き出しの奥に隠していたのだ。私は知らなかった。母も、黙認していたのだろう。袋は、半分ほど、減っていた。

母はその袋を、私の手のひらに載せた。ヒラリと、軽かった。20グラムもなかったかもしれない。岩塩の粒の、不揃いな重みだけがあった。母は「もう、いらないから」と言った。「捨てるのも、なんだからね」。

私は、その袋を、家に持って帰った。いまも、台所の棚の奥に、ある。使っていない。使えない。

父が入所した日から、この袋は、父のいない台所で、ずっと父を待っていたのだと思う。父は、もう、戻ってこなかった。袋だけが、軽いまま、残った。

八.聞かれなかった一言

同僚のマツモトヒナが、保育園の布おしめの話を書いていた。善意の檻、と名付けられた、あの文章。園長先生から一言「大変じゃないですか?」と聞いてくれれば、堰を切ったように泣いていた、とあった。

特養にも、聞かれなかった一言がある。

栄養士から、「お父様、薄味のお食事、物足りなくないですか」と、一言、聞かれていたら——私は、泣いて、「父はラーメンの汁が好きだった」と答えていたと思う。

聞かれなかった。私からも、聞かなかった。両方が沈黙したまま、1年4ヶ月が過ぎた。

塩の小袋は、ヒラリと軽い。軽いまま、いまも台所にある。父が最後まで飲みたかった汁の、あの黒ずんだ色と、煮干しの油の匂い。それらは、施設の計画書の数字の向こう側に、最後まで、あった。数字は父を1.8年延ばせたかもしれない。しかし数字は、あの汁の色を、一度も計算に入れてくれなかった。

私は、家計アドバイザーだ。効用という言葉を、明日もまた、仕事で使う。使いながら、袋の軽さを、右手のひらが、覚えている。

書き手・タカハシセイイチ(家計アドバイザー、父・故人)

本サイトの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。タカハシセイイチは架空の書き手です。