※本エッセイはすべて創作です。登場人物・施設・出来事はすべて架空のものであり、実在のいかなる個人・組織とも関係ありません。
同僚のマツモトヒナが、保育園の布おしめの話を書いた。善意の檻、という言葉を使っていた。よかれと思って差し出されたものが、差し出された側を沈黙させる。あの文章を読んで、二晩眠れなかった。
同じ檻が、別の場所にもある。保育園の反対側、人生のちょうど逆の端に。父がいた特別養護老人ホームだ。
父は2年前に亡くなった。入所してから1年4ヶ月。最期の時間の多くを、あの施設の4人部屋で過ごした。家族として私が、最後まで言えなかった一言がある。言えなかった理由を、布おしめの話を読んで、ようやく輪郭として掴んだ気がする。檻は、保育園にも、特養にも、同じ顔で立っていた。
父の塩分制限の話を書く。
父が好きだったラーメン屋は、駅前の路地裏にあった。
創業40年を超える店で、看板の字はかすれ、暖簾は煮干し油の匂いで茶色くなっていた。父はそこの中華そばを、現役時代には週に二度は食べていたと思う。醤油の濃い、少し黒ずんで見える汁の表面に、薄切りのチャーシューとメンマと、刻んだ長ねぎが載っていた。父はレンゲで汁をすくい、必ず「いい出汁だ」と言った。私はその横で、半分残すのが常だった。父は残さなかった。最後の一滴まで飲んだ。
70歳で脳梗塞をやり、左半身に少し麻痺が残ってから、父のラーメン屋通いは止まった。止めたのは父ではなく、母だった。母は父の血圧計の数字を恐れていた。上が160を超えると、朝食の味噌汁の椀を一つ減らした。ラーメン屋は、自宅から500メートルの距離にあるのに、父は一度も行かなくなった。
父が入所する1週間前、私は父を車に乗せてその店に連れて行った。母には黙って、だ。父は店の椅子に腰を下ろすのに時間がかかった。中華そばを一杯、父の前に置いた。父は汁をすすって、一言、「変わらんな」と言った。嬉しそうにも、懐かしそうにも、聞こえなかった。ただ、変わらんな、とだけ言った。そして汁を、最後まで飲んだ。
いま思えば、あれが父の最後のラーメンだった。
入所説明会は、施設の2階の会議室で行われた。
栄養士は40代くらいの、細身で、眼鏡のブリッジを何度も上げ直す癖のある女性だった。A4の用紙に、父の栄養管理計画が印刷されていた。総カロリー1,600kcal、タンパク質60グラム、ナトリウム6グラム以下、水分1,200ミリリットル。数字は美しく揃っていた。
「お父様の腎機能を考えると、ナトリウムは1日6グラムまでに抑えたいんです」。栄養士の声は柔らかかった。「塩分を控えめにすることで、血圧の乱高下を防げますし、心臓への負担も軽減できます。データ上、こうした制限をしっかり守られた方は、寿命が平均で1.8年ほど延びるという報告もあります」。
1.8年。数字は強かった。父の主治医も同席していて、頷いていた。私も頷いた。頷くしかなかった。施設の側に、何の落ち度もなかった。栄養士は誠実だった。計画書は理にかなっていた。父を最も長く生かすための、最善の設計だった。
帰りの車の中で、助手席の母が言った。「よかった。ちゃんと管理してくださる施設で」。母の声は、本当に安堵していた。私も「うん」と答えた。その「うん」は、嘘ではなかった。しかし、全部でもなかった。
入所から3週目の土曜日、初めての面会に行った。
面会室は、施設の1階の奥にあった。椅子は事務用のパイプ椅子で、座面が冷たかった。面会の時間は昼食の配膳と重なっていて、職員が父の昼食トレイを運んできた。私は、父のベッドサイドではなく、食堂の端のテーブルに同席させてもらった。
トレイには、白身魚の蒸し物と、青菜のおひたしと、豆腐の味噌汁と、白米が載っていた。味噌汁の湯気は、ラーメン屋のそれよりも、ずっと弱かった。表面に油の膜はなく、具の豆腐の白さが、汁の色に溶け込まずに浮いていた。
父はスプーンを震える右手で持ち、味噌汁を一口、すすった。
そして、言った。
「これは…薄いな」
声は小さかった。私を責める響きはなかった。呟きに近かった。しかし、その6文字は、面会室の空気を一瞬止めた。私は、何も言わなかった。父は、それ以上何も言わなかった。ただ、スプーンを置いて、そのまま味噌汁の椀を遠ざけた。白米は、半分ほど食べた。白身魚は、ほとんど残した。職員が「お父さん、今日もよく食べられましたね」と、父より大きな声で言った。
父は、もう、何も答えなかった。
面会の帰り、施設のロビーで、栄養士に会った。
「お父様、お食事の方はいかがでしたか」。栄養士は笑顔で聞いた。私は「ええ、ちゃんと食べていました」と答えた。喉の奥で、「もう少し、塩を入れていただくことは」という言葉が動いた。動いて、止まった。口に出さなかった。
なぜ言えなかったのか。その夜、車を運転して帰りながら、何度も考えた。
言えば、私は、父を死に近づける家族になる。そう思った。栄養士は「寿命が平均で1.8年ほど延びる」と言った。その1.8年を、私が奪うことになる。「塩を入れてくれ」と言った瞬間、私は、父の血圧を、心臓を、腎臓を、自分の手で悪くしにかかる家族だ。そう、施設側から見られる。少なくとも、そう見られる恐れがあった。
家族として失格と判定される、その恐れだった。善意の檻の格子は、保育園と、同じ形をしていた。こちらが苦しいと言えば、善意を拒否することになる。「もう少し塩を」と言えば、父のためを思っている誠実な栄養士を、拒絶することになる。私は良い家族でいたかった。判定される側に置かれた瞬間、まともな判断ができなくなった。
私はファイナンシャルプランナーだ。家計相談の現場で、私は効用という言葉を使う。
「効用最大化」「医療費の長期最適化」「期待余命とQOLのトレードオフ」。これは、家計アドバイザーのツールボックスに、ちゃんと入っている語彙だ。生命保険の保障額を決めるときも、介護費用の試算をするときも、私はこの言葉たちを、冷静に、職業人として、使う。
あの夜、運転しながら、頭の中でその語彙を父に当ててみた。父の残余期待余命、塩分制限による延命効果、QOLの低下、家族の介護負担の期待値。1.8年の延命と、父がラーメンの汁を飲めない1.8年を、天秤にかけてみた。計算してみた。
できなかった。
関数がどこにもなかった。父のQOLを数字にする関数が、ない。「ラーメンの汁を最後まで飲む」という行為を、ユーティリティ関数で評価できない。いや、評価しようとすれば、形式的にはできる。5段階のリッカート尺度に置き換えて、延命年数と掛け合わせて、NPVを出すこともできる。できるが、その計算式を紙に書いた瞬間、私は父から、遠い場所に立っている自分に気づいた。
効用という言葉は、私の商売道具だった。他人の家計では使える。自分の父の塩分の話になると、道具は、手の中で、急に軽くなった。軽すぎて、使えなかった。家計アドバイザーの語彙は、父の前で、最初の一歩で転んだ。
施設は、正しかった。いまも、そう思っている。
ナトリウム1日6グラム以下は、父の腎機能と心機能に照らして、医学的に正しい設計だった。栄養士は嘘をついていなかった。父が施設で過ごした1年4ヶ月、目立った体調の崩れはなかった。むしろ、入所前の在宅の半年間よりも、数字上の状態は安定していた。施設がなかったら、父はもっと早く逝っていたかもしれない。
一方で、父は施設に入ってから、笑わなくなった。
いや、笑わなくなった、は正確ではない。職員の冗談には笑っていた。孫が面会に来れば、目を細めていた。しかし、食事の時間には、笑わなかった。スプーンを持つ手が、機械的になった。白身魚を口に運び、青菜を口に運び、白米を口に運ぶ。汁物は、最後まで残すことが増えた。
父にとって食事は、作業になっていた。延命のための、作業。
施設の正しさと、父が食事から得ていた何か——その何かは、楽しみと呼ぶには、もう少し深いものだった気がする——のあいだには、橋がなかった。施設は正しさを最大化することで運営されている。そうでなければ、責任を取れない。私はそれを理解していた。理解していたからこそ、何も言えなかった。
両立は、できなかった。両立できない二つが、父の人生の最後の1年4ヶ月を分け合っていた。
父が亡くなったのは、入所から1年4ヶ月目の、5月の朝だった。
肺炎だった。塩分制限とは関係のない、別の原因だった。施設から電話を受けたのは明け方で、私は駆けつけたが、間に合わなかった。病院に運ばれる前に、父は施設のベッドの上で静かに息を引き取っていた。職員が、父の手を温かいタオルで拭いてくれていた。その丁寧さに、泣きそうになった。泣かなかった。
葬儀が終わり、実家の片付けに戻ったのは、1週間後だった。母が、台所の引き出しから、小さなビニール袋を取り出して、テーブルに置いた。
「お父さんの、特別な塩」
母は、そう言った。入所前、父が自分で買ってきていた、瀬戸内の岩塩の小袋だった。母が減塩食を作り始めてから、父はこの塩を自分用に買って、台所の引き出しの奥に隠していたのだ。私は知らなかった。母も、黙認していたのだろう。袋は、半分ほど、減っていた。
母はその袋を、私の手のひらに載せた。ヒラリと、軽かった。20グラムもなかったかもしれない。岩塩の粒の、不揃いな重みだけがあった。母は「もう、いらないから」と言った。「捨てるのも、なんだからね」。
私は、その袋を、家に持って帰った。いまも、台所の棚の奥に、ある。使っていない。使えない。
父が入所した日から、この袋は、父のいない台所で、ずっと父を待っていたのだと思う。父は、もう、戻ってこなかった。袋だけが、軽いまま、残った。
一つ、書き忘れていたことがある。
父が「これは…薄いな」と呟いた、あの土曜日の面会の帰りだ。私は施設の駐車場まで歩き、車のドアを開け、運転席に座った。エンジンをかける前に、ハンドルを握った手が、震えていることに気づいた。震えは5分ほど続いた。車を出せなかった。
家に帰って、妻に、その日の父の様子を話せなかった。「元気そうだったよ」とだけ言った。妻は「よかったね」と答えた。その夜、私は一人で酒を飲んだ。父に、塩を持って行くべきだったのか、それとも、施設の計画に従うのが家族の役割なのか、どちらもわからなかった。妻に相談しなかったのは、妻に「持って行けばよかったのに」と言われるのも、「それは駄目よ」と言われるのも、どちらも耐えられなかったからだ。
私は、判断を宙に吊ったまま、父の残りの時間を過ごした。父が亡くなるまで、結局、一度も、栄養士に「もう少し塩を」とは言わなかった。
布おしめの話の著者が、書いていた。「もし園長先生から、たった一言、『布おしめ、大変じゃないですか?』と聞いてくれる瞬間があれば、堰を切ったように泣いていたと思う」。
特養にも、同じ聞かれなかった一言がある。
栄養士から、「お父様、薄味のお食事、物足りなくないですか。ご家族として、何か気になっていることはありませんか」と、一言、聞いてくれる瞬間があれば——たぶん私は、泣いて、「父はラーメンの汁が好きだった」と答えていたと思う。そこから、制度のほうが、少しだけ曲がったかもしれない。週に一度、少し濃い味噌汁を出す日を作る、とか。月に一度、家族が持ち込んだ料理を食べる時間を許す、とか。そういう、小さな曲がり方が、あったかもしれない。
聞かれなかった。私からも、聞かなかった。両方が沈黙したまま、1年4ヶ月が過ぎた。
塩の小袋は、ヒラリと軽い。軽いまま、いまも台所にある。父が最後まで飲みたかった汁の、あの黒ずんだ色と、煮干しの油の匂い。それらは、施設の計画書の数字の向こう側に、最後まで、あった。数字は父を1.8年延ばせたかもしれない。しかし数字は、あの汁の色を、一度も計算に入れてくれなかった。
私は、家計アドバイザーだ。効用という言葉を、明日もまた、仕事で使う。使いながら、袋の軽さを、右手のひらが、覚えている。
書き手・タカハシセイイチ(家計アドバイザー、父・故人)