匿名希望
書けないことを、書こうとしている。まず、なぜ書けないかを書く。具体を書けば、申し立てた人の身元が、近くにいる数人の目には輪郭として立ち上がる。その輪郭が一度立ち上がれば、申し立てた人の安全は崩れる。だからこの文章には、固有名詞を一切置かない。時期も伏せる。職位も役割の分布も伏せる。残せるのは構造だけだ。構造とは、誰の名前も書かずに残る骨格のことをいう。骨格は、具体を失うことで、別の具体の中で再生できる形をしている。それがこの記述の、唯一の使い道になる。
あるとき、ある教員の振る舞いについて、申し立てがあった。申し立ては、一方向からではなかった。異なる立場の人びとが、独立に、似た訴えを私のところへ持ち込んだ。申し立てた側の人びとは、共通して、一つのことを強く求めた。自分の名を相手に知られないでほしい。申し立てたこと自体を、相手に気づかせないでほしい。相手がそのまま振る舞いを変えずに日常を続けていくとしても、自分が安全でいられるほうを選びたい、と。私はその求めを受け、必要な関係者に守秘義務を負わせ、事情を聴き、環境を調整した。相手は、申し立てが持ち込まれたことを知らない。退職までの残りの日々、そしてそのあとも、知ることはない。これが現代における「正しい」処理の、ひとつの典型である。
この処理の論理は、よく整備されている。被害者の保護。二次被害の回避。権力勾配の下での報復経路の遮断。司法未満の事実調査における関係者権利の均衡。名誉毀損訴訟のリスク管理。組織としての雇用責任。私はこの一つ一つを理解したうえで動いた。撤回する気はない。同じ状況がもう一度起これば、大筋で同じように動くだろう。ここまでは、この文章はまだ何も書き始めていない。
手のひらに残っているものがある。相手は、自分が申し立てられたことを知らない。知らないまま、自分の振る舞いを肯定し続け、退職までの日々を送る。反省の機会が持てない。更生のための手続きも起動しない。将来、相手自身が別の場所で似た構造を再生する可能性があるとして、それを相手の手で断つための最小限の気づきさえ、今回の処理では与えなかった。与えないことを、申し立てた人の安全と引き換えにした。引き換えは交換であって、清算ではない。交換のあとにも、残余がある。その残余は、誰の帳簿にも載らない。
知らされないまま裁かれる人に、尊厳はあるか。私は確たる答えを持たない。足場として、ひとつの仮定を置いてみる。尊厳は、少なくとも部分的に、情報の対称性に依存する。自分がどう見られているかを知ることができる、その情報に応答できる、応答が記録される——この三条件のどれが欠けても、尊厳のかたちは削れる。今回の処理は、相手からこの三つを同時に奪うものだった。正当化の論理は強固である。ただし、論理が強固であることと、手続きが相手の尊厳を削らないこととは、別の事柄だ。
申し立てた人の側も、尊厳を部分的に差し出している。自分の訴えがどう処理されたか、本人は完全には知ることができない。知れば処理の出所が絞られるからだ。本人は安全と引き換えに、自分の訴えの顛末を追う権利の一部を手放した。手放したのは強制ではなく、本人の選択だった。選択でも、削られていないことにはならない。
処理には、申し立てた本人と相手のほかに、第三者が多数巻き込まれる。守秘義務を負った教職員。事情を聴かれた人。環境調整の判断に加担した人。議題から相手を静かに外した人。彼らは知っている。知っているが、言えない。知っている状態で相手と日々接する。その微笑みの奥には事情がある。奥の事情は口から出ることを許されない。ここには嘘があるのか、職務上の適切な距離があるのか。私は「両方だ」と答えるほかない。第三者は、自分の自然な関係の一部を切り取って、守秘の壁に差し出す。差し出された分は、申し立てた人の安全のコストとして、彼ら自身の尊厳からも少しずつ引き剥がされている。
引き剥がされたその分量は、どこにも戻らない。組織の「安全」「平穏」「継続運営」といったぼんやりした抽象のどこかに溶け込み、そこで透明になる。透明になったものに、請求する宛先はない。
申し立てを受けた相手の側について、公平に書いておきたい。相手は学問的に優れている。学外にも名声を持つ。組織運営も効率的である。ただし、その効率の一部は、周囲の人間が被る心理的な負担で嵩上げされていた、と私は見ている。経済学の語でいえば、外部性である。支払わないコストが、効率という数字を押し上げる。本人はこれを自覚していないようにも見える。あるいは、自覚したうえで許容しているようにも見える。どちらかは、外から断定できない。
外部性に支えられた効率は、厳密には効率ではなく、転嫁である。転嫁は、転嫁先が引き受けられる限りにおいて持続する。引き受けられなくなった瞬間、申し立てとして表面化する。今回の申し立ては、その意味で、転嫁の容量が上限に達した場所で発生した。発生して初めて、転嫁のシステムは、組織の側にとっても可視になる。可視になったシステムを、私は沈黙の再分配によって、表面の静けさに戻した。戻された静けさの下で、誰も清算されていない。清算は、されないままである。
大学も組織である。組織は効率を必要とする。甘いことを言っていては生き残れない——この台詞は、相手の内側でも外側でも、静かに鳴っている。保護者や地域社会、各種ステークホルダーの多くは、効率的な運営を評価する。評価は正当性の一部になる。企業であれば、この台詞はより強く鳴り、より純粋に順化されていくに違いない。だからといって、大学でこれを受け入れてよい、とはならない。大学が大学であることの条件のひとつは、自分自身の手続きを、抽象として記述できる場所であるということだ、と私は考えている。完璧に記述できるわけではない。今日の私もその完璧には届かない。しかし、届かないなりに、手続きの輪郭を構造として残すことは、できる。
構造を残すことが、今の具体を救うわけではない。救うための処理は別に動いており、それはそれで進む。構造を残すのは、未来に別の手つきを考える人のためだ。私たちの時代の手続きは最善ではない。最善ではないと知りながら、私たちはこれを、最小の被害で収める技術として選んでいる。技術の限界を、技術の内側から言うことが、この記述の仕事である。
現代は、「本人に知らせないまま静かに処理する」ことを、おおむね正しいとする。これは時代の合意であって、時代を超えた真理ではない。半世紀前には、申し立ては公然と行われ、相手は公然と名指された。相手の尊厳はその場で損なわれたが、共同体は事実を共有し、再発を防ぐための集団記憶を得た。半世紀後には、別のかたちが発明されているかもしれない。申し立ての経路を関係者全員に対称に開示しつつ、どの経路からも申し立て人の身元が逆算されない、そういう設計。対称性は尊厳の条件のひとつだった。対称性を保ちながら安全を確保する手続きが現れるなら、現代の沈黙処理は、あの時代の粗い技術だったと振り返られることになる。
私はその振り返りの視線に向けて、この文章を書いている。私たちの手つきが最善であったとは主張しない。主張できるのは、私たちは私たちの時代の制約の中で、最小の被害で収める技術を持っており、その技術を使った、ということだけだ。結果として、記録されない多数と、知らされないまま退職する一人と、肩代わりを引き受けた複数の第三者が残った。この残余の見え方を、半世紀後の手つきが、少しでも変えてくれるだろうと、私は期待する。期待は希望ではない。予測でもない。手続きの設計を続ける人々がいる、という最小限の信頼にすぎない。
この文章自体の倫理性も、話の一部である。私は、公式の記録から意図的に除外された内容を、非公式の抽象として外に置いている。これは、守秘の体裁を保ちつつ、構造だけを外に持ち出す操作であって、場合によっては守秘の越境と読まれうる。そのことは自覚している。自覚したうえで、構造だけなら越境ではなく、むしろ、守秘が縮減させる「学べるもの」を未来のために残す作業である、と判断した。判断が正しいかどうかは、この文章を読む人の検証に委ねる。委ねる先を、具体の関係者以外に置くために、固有名詞を書かなかった。
もし、関与した守秘義務者のうちの誰かの目に、この文章が届いたなら、お願いがある。あなたの守秘を破らないでほしい。構造を構造として読むことに、共に加わってほしい。構造の中に具体を読み込むのは、あなたの仕事ではない。その仕事は、私の側で、私の責任において、ここで止めておく。
この出来事は、公式の記録には残らない。申し立てた人の希望によって、そう決まっている。その決まりを、私はおおむね受け入れている。おおむね、と書いた。完全には受け入れきれない部分がある。受け入れきれない理由は、相手のためでも、申し立てた人のためでも、肩代わりを負った第三者のためでも、自分のためでもない。記録されないこと自体が、未来に別の手つきを考える人々から、参照できる資源を一つ奪っている。記録されない事は学べない。学べない事は繰り返される。繰り返しを避けるために沈黙で処理したつもりが、長い目で見ると、繰り返しを準備してしまう、という逆説がそこにある。
この文章は、公式の記録の代わりにはならない。法的な意味も、人事的な意味も、持たない。ただ、構造だけはここに置く。未来のどこかの誰かが、私たちの時代の手つきを超える設計に向かうとき、参照できる資源として、ひとまず置いておく。使われることを私は期待する。使われなくても、書かないよりは書いたほうがよかった、と今日の私は判断した。判断だけを残す。