短い断章を、いくつか。
エレベーターの前で、見知らぬ人が「先にどうぞ」と道をあけてくれる。私は譲っているつもりがないので、断りようがない。譲られると、譲られた人になる。
譲られた人になりきった日、駅から自宅まで、私は何回譲られたか数えてみた。十一回だった。
感謝、というよりは、観察に近い気持ちでメモをした。十一という数字は、その日の私の、もうひとつの肩書のようだった。
受診のとき、夫が私の代わりに答え始める。「今週は痛みが少しマシで」。私が口を開くより、いつも半秒だけ早い。
先生は夫を見て、私を見て、それから夫に向かって質問を続ける。私は壁にかかっているカレンダーを読む。八月の写真は、海だった。
誰も悪くない。夫は私を案じている。先生は時間を惜しんでいる。私は海を見ている。
電話越しに、相手は私の年齢を聞いて、声を半段やわらかくした。半段。
私はその半段に、何かを反応するべきなのか、迷う。受け取るのか、受け取らないふりをするのか。受け取ったあとで、それを忘れていいのか。
結局、私もこちらの声を半段やわらかくして、出発時刻を伝えた。やわらかさは伝染する。
月に一度の歌会では、私は車椅子の人ではない。私は、歌を持って来た一人の連中の一人だ。
誰も私の体について何も言わない。私の歌の使う動詞について、九十分間、議論が続く。「告ぐ」か「告げる」か。連体形の重さについて。
九十分間、私は人だった。
二十代の若いヘルパーさんが、ある日ぽつりと言った。「私が決めるんじゃなくて、田代さんが決めることなんですよね」。
私は「その通りよ」と笑って答えた。けれど内心、その一言にずいぶん救われていた。
決めることが、まだ私に許されているという、その確認に。
息子が帰省して、夫と一緒に「お母さんの今後のこと」を別室で話し合った。私はその間、台所で湯呑を持っていた。湯気を見ていた。
話し合いが終わって息子が来て、こう言った。「いくつか案を考えたから、お母さん選んで」。
選べる、ということが、たぶんいちばん必要だった。決めてもらうのでもなく、放っておかれるのでもなく、案が三つ並んでいるという、その状態が。
優先席の前に車椅子で停まると、座っている若い人が、目を合わせないようにスマートフォンを少し近づける。私は座らないので、立たなくていい、と言いたいが、言うこと自体が相手に何かを背負わせる気がして、言わない。
三駅、私たちは互いに、互いの存在を半分だけ知らないふりをして、揺られていた。
降りるとき、その人は顔を上げて、ほんの少しだけ会釈をした。私もした。それで足りていた。
三十九年間、私は教壇に立っていた。生徒の答えを、先回りして言ってしまうのが、若い頃の私の癖だった。
歳をとってから、ようやく、待てるようになった。生徒の沈黙は、考えている沈黙だ、と分かるようになった。
いま、譲られ、答えられ、決められそうになる側に立ってみて、思う。あのとき先回りされた生徒は、こんな気持ちだったのか、と。気づくのが、四十年遅かった。
譲られて
譲られすぎて
駅前を
進む速さが
だれかのものに
田代 澄子