「あなたたちのため」と言われて
——留学生から、日本の大学に書く手紙

拝啓

突然このような手紙を差し上げる無礼を、まずお詫びします。あなたが誰であるかを私は知りませんが、これを読んでくださっている、ということ自体が、私にはありがたいです。学生課の方かもしれませんし、国際センターの方かもしれません。あるいは、たまたまこの紙を片づけているうちに、ふと最初の一行に目をとめてくださった事務職員の方かもしれません。誰であってもかまわないのです。読み終えたあとで、もう一度この封筒に戻していただければ、それで構いません。

私の名前は黄民均(ファン・ミンギュン)と申します。韓国・ソウルから来た、工学研究科の修士二年です。日本に来てから三年半が経ちました。日本語は、まだまだ拙いです。論文の専門用語のほうが、コンビニで温かいお茶を頼むときのことばよりも上手に出てきてしまう、という妙な癖がついています。ですから、この手紙の中に、日本語として少し奇妙な言いまわしが残っているかもしれません。それは、後ろに添えられている欄外の注のとおり、編集の方が私の手触りを残してくださった結果です。失礼ではなく、むしろ正直さのつもりだと、受けとっていただけたら幸いです。

この手紙は、苦情ではありません。お礼でもありません。お礼を兼ねた相談のようなもの、と書けば一番近いかもしれません。先日、大学が「外国人留学生のための新しい支援制度」を発表しました。説明会にも出ました。資料も読みました。読みながら、ずっと考えていたことを、どこかに書き残しておきたくて、それで筆を執りました。あなたに宛てるかたちを取らせてください。なぜなら、私たち留学生のあいだで話しているだけでは、たぶん、何も変わらないからです。

一通目——制度ができた日のこと

制度の発表があった日のことを、まずお話しします。

説明会の会場は、いつもより少し広い教室でした。学生課の職員の方が三人、前に立っていらして、新しい制度のパンフレットを一枚ずつ配ってくださいました。表紙には、桜の写真と、英語と中国語と韓国語の見出しが並んでいました。韓国語の翻訳は、ちゃんとしていました。私は、それを見たときに、ああ、ここまで気を使ってくださったんだな、と思いました。本当にそう思ったのです。これは、皮肉ではありません。

説明をしてくださった職員の方は、私たち留学生の名前をひとりひとり覚えてくださっていて、ベトナムから来たトゥアンには「お国のご家族はお元気ですか」と声をかけ、中国から来たリンには「論文、もうすぐ提出ですね」と笑いかけていらっしゃいました。三人とも、とても親切な方たちです。ある先生は、寮で熱を出した留学生のために、夜遅くに薬局まで車を出してくださったこともあると聞いています。そういう方たちです。私はそのことを、忘れません。

新しい制度には、いくつかの柱がありました。月に一度の「異文化交流ランチ」。日本人学生がボランティアで参加してくれるそうです。学期に二度の「日本文化体験ツアー」。京都のお寺と、近くの和菓子屋さんを訪ねるコースが組まれていました。それから「メンター制度」。日本人の上級生が、留学生ひとりひとりに付いてくれて、相談に乗ってくれるそうです。どれも、よく考えられていました。お金も、きっと、それなりにかかっているのだと思います。

パンフレットを最後までめくって、私はもう一度、最初から読み返しました。なぜかというと、自分が今いちばん困っていることが、どこにも書かれていなかったからです。書かれていない、ということに気づくのに、私は二回読み直す必要がありました。書かれていないものは、最初の一読では見えないのです。

私が今いちばん困っていることは、二つあります。一つは、ビザの更新の時期に、大学からもらう在籍証明書が、入管の指定する期日になかなか間に合わないということです。これは、私だけの問題ではありません。先月もモンゴルから来たバトが、書類が遅れて、申請を一度差し戻されました。彼は、研究室の徹夜の合間に、入管に何度も足を運んでいました。もう一つは、冬休みのあいだ、寮が閉まってしまうことです。三週間ほど、行く場所がありません。実家に帰れる学生はよいのです。でも、航空券が高すぎて帰れない学生や、博士課程で実験を止められない学生は、毎年、漫画喫茶や安いビジネスホテルを転々とします。これも、新しい制度には、ひとことも触れられていませんでした。

私は、誰かを責めたいわけではないのです。むしろ逆で、これだけ親切に、これだけのお金と時間をかけて作られた制度が、なぜ、いちばん痛いところに届かなかったのか。それを、責任を問うかたちではなく、設計の問いとして、書き残しておきたいのです。

二通目——「당신들」と「あなたたち」

少しだけ、ことばの話をさせてください。私は来日するまえ、ソウル大学で言語学を副専攻にしていました。ですから、ことばのちょっとした手触りに、つい敏感になってしまう癖があります。

新しい制度の発表のなかで、職員の方が何度か、「あなたたちのために」とおっしゃいました。それは、本当に、温かい声で発せられたことばでした。聞いていて、嬉しかったです。同時に、私は心のなかで、ふと、韓国語ならどう言うだろう、と考えていました。

韓国語にも「당신들(タンシンドゥル)」という二人称複数があります。直訳すれば「あなたたち」です。けれど、韓国語の話者は、面と向かって相手を「당신들」と呼ぶことを、ほとんどしません。「당신」は文学や歌詞のなかでは美しい呼びかけになりますが、日常会話で「당신들」と言われると、ある種の距離が生まれます。「あなたたち、その集団、そちら側の人々」という、こちらと向こうを区切る響きを帯びてしまうのです。だから韓国語の話者は、たいてい、相手の名前を呼ぶか、「先生」「学生さん」「お客様」のように、関係を示すことばを選びます。「당신들」と一括りにすることを、無意識のうちに避けるのです。

日本語の「あなたたち」は、たぶん、もっとやわらかいのだろうと思います。少なくとも、職員の方は悪意なく、ごく自然に、その語をお使いになっていました。けれど、私の耳にはどうしても、母語の響きが重なってしまう。「あなたたちのために」と言われた瞬間に、「あなたたちと、私たち」という、見えない一本の線が、教室の真ん中にすっと引かれるような感じがしたのです。これは、職員の方の責任ではありません。ことばの構造の問題でもありません。私の耳が、そう聞いてしまうというだけの話です。

けれど、その線がいったん見えてしまうと、もう一つのことに気づきます。「あなたたちのために」と言うとき、その文の主語は、たいてい「私たち」です。「私たちが、あなたたちのために、これをします」。文法としては正しい。意図としても、誠実です。ただ、その文には、もう一つの可能性がほぼ含まれていません。それは、「あなたたちと一緒に、これを考えます」という言いかたです。前者は与える側と受けとる側を分けます。後者は、その線をうっすら引き直します。同じ親切でも、ことばの構造が違うのです。

誤解しないでいただきたいのですが、私は「あなたたちのために」と言うことを悪いと言っているのではありません。むしろ、それは出発点として、まったく自然なことばです。ただ、出発点のままで止まってしまうと、そのことばは、線の向こう側で完結してしまう。そのことを、ソウルの言語学の教室で習ったかすかな感受性が、私に思い出させてくれるのです。

三通目——設計の場に呼ばれるということ

ここからが、いちばん書きにくい部分です。書きにくいので、遠回りに書かせてください。

私がソウル大学にいた頃、大学が「日本人留学生のための支援プログラム」を作るという話を、サークルの先輩から聞いたことがあります。私の親友のジュンは、ちょうどその頃、東京から交換留学でソウルに来ていました。大学では、日本人留学生のために、韓国語の集中講座、伝統工芸の体験、教授との茶話会などを企画していました。立派なプログラムでした。けれど、ジュンが本当に困っていたのは、別のことでした。彼は、住んでいたコシウォン(小さな下宿)で、お湯が出ない日が週に二度ほどあって、シャワーを浴びるためにジムに通っていました。それから、銀行口座を開くために必要な書類を、韓国語で集めるのに、一か月かかっていました。彼は、伝統工芸の体験には参加しませんでした。時間がなかったのです。

ジュンと私は、その当時、コシウォンの近くの食堂で、よくキムチチゲを食べながら、その話をしました。彼は怒っていたわけではなく、ただ、「もし最初に、僕たちのうちの一人にでも、何が必要かを聞いてくれていたら、たぶんプログラムの中身は、半分くらい違ったものになっていたと思うよ」と言いました。半分くらい違ったもの。この言いかたが、私のなかにずっと残っています。

あのときの大学を、今の私は責められません。なぜなら、ソウルの大学の職員の方たちもまた、おそらく、誠実な善意でそのプログラムを作っていたからです。問題はどこにあったのでしょうか。私が考えるのは、それは「個人の善意」の問題ではなく、「設計の場に誰がいたか」という問題だ、ということです。設計の会議室に、日本人留学生は呼ばれていなかった。代わりに、日本に詳しい韓国人の先生や、日本企業との交流経験のある事務職員の方が、彼らのために設計してくださった。それは、代弁です。代弁は悪いことではありません。けれど、代弁だけでは届かないことがあります。お湯が週に二度しか出ない、ということは、代弁では出てきにくい情報なのです。

今、私が日本で経験していることは、ちょうど鏡像のように、あの頃のソウルの話と重なります。新しい制度の設計会議に、留学生の代表は、呼ばれていなかったと聞いています。これも、誰かを責めるために書いているのではありません。たぶん、留学生を呼ぶことには、いくつかのコストがあるのだと思います。スケジュールの調整。日本語のレベルの問題。誰を代表にするかという、それ自体が難しい問い。私には、それらの困難さが、わかります。わかるからこそ、それでも、と書きたくなるのです。

「設計の段階で、影響を受ける人を呼ぶ」——これは、私の考えでは、コストの問題ではありません。設計の質の問題です。呼ばないで作った設計は、呼んで作った設計よりも、たぶん、半分くらい違うものになる。ジュンのことばを借りるなら、そういうことです。そして、その「半分」は、あとから埋めようとすると、もとから含めるよりもずっと高くつくのです。

私は、日本の大学制度の専門家ではありません。日本の事務手続きの背景にある法律のことも、よく知りません。それは、はっきり申し上げておきたい。けれど、留学生の経験の専門家には、私はなれます。在籍証明書が間に合わなかった先月のバトの顔を、私は見ています。寮を追い出された冬の三週間の、安いホテルの薄い布団の感触を、私は知っています。これは、誰にも代弁してもらえない知識です。設計の会議室に呼んでいただければ、一時間で、たぶん多くのことがお伝えできます。一時間も難しければ、三十分でも結構です。

ある先輩の留学生が、こう言っていたのを思い出します。「サブシディアリティ、というむずかしい西洋のことばがあるらしい。下のひとが自分でできることは、下のひとがやる。下のひとが自分で決められないことだけ、上が代わって決める。そういう考えかたらしいよ」。私は、そのことばを、辞書で調べたことしかありません。ただ、その先輩のかみくだいた言い方のなかに、なにかとても素朴で、まっとうなものを感じました。「あなたたちのため」と言うまえに、「あなたたちはどう思いますか」と一回だけでも聞く。たぶん、それくらいのことなのだと思います。

最後に

長い手紙になってしまいました。ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。

新しい制度の異文化交流ランチには、私も参加するつもりでいます。日本文化体験ツアーも、行ってみたいです。京都のお寺は、私もまだ行ったことがありません。せっかく作ってくださった機会ですから、感謝して使わせていただきます。これは、決して嫌味ではなく、本当のところです。

ただ、その隣に、できればもう一行だけ、書き加えていただけたらと思うのです。「次の会議には、留学生の誰か一人を呼びます」と。それだけで、たぶん、これからの制度は静かに変わっていきます。誰かを排除するためにではなく、設計をより正確にするために。代弁の善意のうえに、もう一枚、当事者の声を重ねるために。

もしこの手紙が、次の制度設計の会議室の片隅にでも置かれていれば、それで十分です。読まれなくても、束ねた書類のいちばん下にあって、誰かが資料を整理するときに、ふと指先が触れるだけでもよいのです。設計は、設計される側を呼んで、はじめて、設計になる。それを、私の語学の限界を許してくれる日本のことばで、書きました。

季節の変わり目です。職員の皆さまも、どうかご自愛ください。三年半お世話になりました。これからも、よろしくお願いします。

かしこ。

黄 民均(ファン・ミンギュン)