上の世代のことば
若い頃の私が聞いていた、昭和の会社の口ぶり

ワタナベ(65歳・元会社員)

退職して三年が経った。ソノダさんの昭和語彙の資料を手伝うようになって、消えていく語を並べていると、自分がかつて「上の世代」の口ぶりに感じていた違和感が、いま頃になって言葉の形を取り始めた。私が二十代だった 1980 年前後、五十代六十代の先輩方は大正末から昭和一桁の生まれで、戦争と復興を身体の中に抱えた人びとだった。彼らの口から出てくる言葉を、私は笑ってもいたし、黙って呑んでもいた。今になって、あの口ぶりの一つひとつに、たしかに意味があったのだと気づく。意味があったこと、それ自体が、私を少し怯えさせる。

呼称の非対称

まず、呼ばれ方と呼び方が左右対称ではなかった。私は先輩に「渡辺君」と呼ばれ、時には「おい」「お前」と呼ばれた。返すときはこちらから姓に役職をつける。「田島部長」「中村課長」「小野寺さん」。呼び捨ては私から先輩へ向けては一度も使わなかった。使ってはいけない、と教えられる前に、空気がそう決めていた。新入社員の頃、同期の山岡が酒の席で「中村さん、俺はね」と言った瞬間、場が一瞬固くなったのを覚えている。「俺」を先輩に向けて使ったことが、わずかに秩序を揺らした。その夜、山岡は先輩から「お前はまだ『僕』だ」と言われた。

「僕」と「俺」の使い分け、「君」と「お前」の使い分け、呼称の非対称の全体は、階層を空気の形で伝える装置だった。名刺を交換する前から、呼び方が役職を先に決めていた。

「ご苦労さん」と「お疲れ様」

夕方の廊下で、先輩が帰る私の背中に「ご苦労さん」と声をかける。あの頃、「ご苦労さん」は下向きの労いで、目上が目下にかける言葉だった。私が同じ場面で先輩に何と返したか。「お先に失礼します」がほぼ唯一の形だった。「お疲れ様でした」は、まだ少数派だった。新入社員研修で「お疲れ様は対等以上に、ご苦労様は目下に」と教わって、これが八十年代の半ばにひっくり返り始めた。いまは「お疲れ様です」が一日じゅう飛び交って、「ご苦労様」はむしろ失礼に近い印象を持たれる。私が若い頃には、田島部長から毎日「ご苦労さん」と言われていた。今日の若い人に同じ言葉で声をかけたら、たぶん相手は一瞬詰まる。

同じ一語が、二十年で意味の位置を入れ替える。言葉は世代の間で席替えをしている。

精神論の語彙

入社二年目の冬、コピー機に紙が詰まった。大判の資料を百部取っていた夜の十一時で、先輩の中村さんが私の隣で舌打ちをした。「お前、こんなもん体で覚えろよ」。体で覚えろ。見て盗め。気合が足りない。根性入れろ。ド根性。火の玉。精神一到。これらは先輩の口から一日に何度も出ていた。「甘い」「お前まだ青いな」「鼻っ柱だけはあるな」。鼻っ柱、という言葉を、私は入社まで一度も使ったことがなかった。会社に入ってから初めて肉声で聞き、三年目にはすでに自分も後輩に使っていた。

「体で覚えろ」は、当時の会社文化の根幹の一つだった。マニュアルを整備するより、手本を繰り返し見せて、先輩の背中を真似させる。言葉で説明することは、むしろ「真の技術」の伝達を損なう、という信念があった。現代のような手順書文化とは真逆で、体の記憶だけが信用された。新入社員の私は、この信念に半分反発し、半分従った。反発したのは、教えてもらえないことの不便さ。従ったのは、「体で覚えろ」と言われて困りながら、それでも何年かで本当に体が覚えたことがあるからだ。

戦中の残響

いちばん呆気にとられたのが、戦争の語彙が日常に流れ込んでいたことだった。営業会議で、田島部長が「こりゃあ特攻だな、この案件は」と真顔で言った。二次会の席で、中村さんが「軍隊じゃこうだった」と切り出して、海軍の体験を十分語る。小野寺さんは陸軍経験はなかったが、兄を特攻で亡くしていて、「兄貴の分もやる」と何度も繰り返した。「鉄拳制裁」「ビンタ」「敵前逃亡」——こうした言葉が、営業計画の説明にそのまま出てきた。私はその度に、言葉の下に埋まっている三十五年前の経験の重さに気圧された。彼らの多くは二十代で戦争を経験し、三十代で復興期の会社に入り、四十代で高度成長を駆け抜けた人たちだった。私が入ったときの彼らの五十代は、戦中と戦後の語彙を同時に抱えている世代の最終期だった。

「昔の我々は」と切り出す話の多くは、戦中の話か、戦後の焼け野原の話だった。「配給の米」「闇市」「一升瓶の酒」「銀シャリ」。銀シャリ、という語を、私は先輩の口から初めて聞いた。白米のことをそう呼んだ時代が、彼らの身体のなかでまだ現役だった。

女性社員への語彙

若い頃の私がいちばん直視しきれなかったのが、女性社員への語彙である。私が入社した 1983 年には「OL」が定着していたが、それより十年前までは「BG」(ビジネスガール)が使われていた。先輩たちの中には、私の世代の同期の女性たちを「女子社員」と呼ぶ人がまだ多数いた。「うちの女子社員」。「女子に頼むような仕事じゃない」。「寿退社の準備で忙しいんだろ」。寿退社、腰掛け、お茶くみ、コピー取り——これらの語が、会議の冒頭でごく普通に使われていた。同期の花田さんが、始業前にコーヒーサーバーの水を入れ替えているのを、私は毎朝見ていた。当番の札があるわけではないのに、水の補充と湯飲みの洗浄は、いつも女性社員が担当していた。

「女・子供にはわからん」という定型が、重要な議論の冒頭で出されることがあった。田島部長がよく使った。その場には花田さんがいた。花田さんは聞こえていないふりをしていたのか、本当に聞こえなくしていたのか、いつもパソコンに向かって手を動かしていた。私は何も言わなかった。何を言えばいいかも分からなかった。今なら何が言えるか、と考えても、たぶん当時の場の空気の厚さの中では、何も言えなかっただろうとも思う。言えなかったことを、今になって言葉にしている。

酒の席

酒は階層を測る道具だった。「ちょっと一杯やるか」と田島部長が課員に声をかける。予定があろうが、それは断るべきではなかった。「無礼講だぞ」と誰かが宣言する。無礼講という制度は、実のところ礼がないわけではなく、むしろ礼の裏返しを演じる儀礼だった。本音を出せ、と言いながら、本音の出し方には作法があった。先輩の前でちょうどよく酔い、ちょうどよく冗談を言い、ちょうどよく次の店を提案する。「二次会まで付き合え」「三次会は若い者の奢りだ」「帰りはタクシーで帰れ、それが一人前のサラリーマンだ」。タクシーで帰ることが「一人前」の条件だった時代。終電の時刻そのものが、キャリアの尺度の一部になっていた。

酒の席でだけ本音を言える、という建前は、昼間の会議ではお互い何も言っていないに等しい、ということの裏返しでもあった。昼は根回し、夜は本音。この二層構造は、酒に弱い同期や、家庭の事情で毎晩付き合えない人を、そのまま会社の階層の下に留める仕組みとして働いた。当時は制度と呼ばれなかったが、今から見れば立派な制度である。

会議の技術

会議の語彙は独特だった。「根回し」「仁義」「稟議」「判子」「朱印」「めくら判」。めくら判、という語は、差別的な意味を含むにもかかわらず、当時の職場で普通に使われていた。内容を読まずに判子を押すことを指した。誰も疑問を呈さなかった。疑問を呈すべきだと分かる人もいたかもしれないが、口に出さなかった。「仁義を切る」は、営業の基本作法だった。取引先のキーマンに、案件が動く前に一声かけておく。それを怠ると「仁義がなってない」と叱責される。若い私にとって、仁義は仁侠映画の言葉だったが、先輩たちにとっては、商談の常識語だった。

稟議書には「決裁」欄が十個並び、平社員から社長まで、縦に上がるごとに判子を重ねる。一枚の紙の上に、会社の階層が物理的に具現化していた。「判子の重みが違う」と田島部長がよく言った。部長の判子は課長の判子より重い、という感覚は、当時の私には分かりにくかったが、何年もして、自分が課長の判子を押すようになって、ようやく分かった。重い、という表現は比喩ではなかった。責任の累積が、印影の力として感じられる日が、確かにあった。

家のことと会社のこと

先輩方は、家のことを会社で話さなかった。話したとしても、「家内」「女房」「うちの」という言い方で、名前を出すことはほとんどなかった。「家内がね」「女房に怒られた」「子供がもう高校生でね」。自分の家族を自分の名前の付属物として、ぼんやりと言及する習慣だった。子供の名前、配偶者の名前、父母の名前——私は先輩方のそれらを、十年勤めても知らないことが多かった。家と会社は、意図的に分離されていた。会社で家庭の話を持ち込むのは「公私混同」で、それは恥ずべきことだった。私が入社した頃、田島部長の奥様が入院されたことを、私は後から人伝に知った。部長は会社で一言も漏らさなかった。

いま、退職して同じ世代の人たちと会うと、家のことを一番よく話すのは、かつて最も厳しく「公私混同」を嫌っていた先輩だったりする。話す準備が三十年遅れてくる。遅れてきたそれを、私は黙って聞く。

反論を封じる定型

若かった私がいちばん苦しかったのは、反論を封じる定型だった。「常識だろう」「それくらいのこと」「まだ若いんだから」「世の中ってそういうもんだ」「お前の理屈はわかる、だがな」「理屈は後からついてくる」。これらの一言が出た瞬間、議論は終わった。論点を拾い直すことは、許されないわけではないが、場の空気として歓迎されなかった。「まだ若い」は特に強く、二十代の私にはこの四文字を突破する道具がなかった。反論の語彙を持たないまま、黙るしかない場面が多かった。

「君の言うことはわかる。が、それはそれとして」。「それはそれとして」で切り返されると、自分の論点が「それはそれ」の側に置かれ、議論の主舞台から外される。場にいる全員がそれを感じ取り、話は先へ進む。当時の私は、この切り返しが会議術の一つだと理解するのに三年かかった。理解した後も、自分がそれを使う側に回ることには、しばらく抵抗があった。抵抗も、結局、年次とともに薄れた。

自分が「上の世代」になったとき

時代は回る。私が部長になった頃、部下の若い社員から見れば、私は田島部長のような「上の世代」の一人だった。私は「ご苦労さん」とは言わないよう気をつけた。「お前」も使わないようにした。「君」も控えた。「根性」「気合」「体で覚えろ」を口にしないよう、意識して監視した。それでも、気を抜くと「まあ、それはそれとして」と言ってしまう自分に、何度も気がついた。反論を封じる定型のほうが、封じられる側の語彙より先に身に沁みる。身体は、反論する技術より、反論を受け流す技術のほうを早く覚える。これは単に私の世代の癖ではなくて、組織のなかで階層を上がっていく身体の宿命だったのかもしれない。

部下の一人が、ある日、会議の後で私に「渡辺部長の時代は、そうやって物事を決めていたんですか」と聞いた。悪意はなかったと思う。ただ、距離があった。私が若い頃、田島部長に対して感じていた距離と、同じ種類のものだった。気づいた瞬間、鏡を見たような居心地の悪さがあった。私が先輩に感じていた違和感を、今度は私が後輩に感じさせている。自分が運んでいる容器の中身を、自分で確かめる前に、後輩が外から指さしている。

言葉は世代を運ぶ容器

ソノダさんが、広告の語彙の考古学を進めるのを横で手伝っていて、私は自分のなかに同じ作業の種が転がっているのに気づいた。自分が使ってきた会社の語彙を、若い頃に聞いて、やがて使うようになり、今は控えるようになった、その一語一語の時系列を、時間をかけて書き出せる段階に、私はようやく入った。

言葉は世代を運ぶ容器である。容器は中身を選ぶ。「ご苦労さん」は下向きの労いしか運べなかったし、「無礼講」は本音の儀礼化しか運ばなかった。「体で覚えろ」はマニュアル化以前の技能伝達しか運ばず、「仁義」は個別の人間関係に依拠した決裁しか運ばなかった。これらの容器は、いまの職場のほとんどで使い物にならない。運ぶべき中身が変わった、あるいは、運ぶこと自体が不要になった。容器は淘汰される。淘汰された容器に、私は郷愁を感じる筋合いはない。感じても仕方がない。

ただ、容器が消えても、運ばれていた中身の一部は別の容器に移し替えられる必要がある。「体で覚えろ」の代わりに、今はオンボーディング資料と OJT がある。「仁義」の代わりに、顧客関係管理システムがある。「根回し」の代わりに、事前アラインメント会議がある。移し替えが全部うまくいっているわけではない。取りこぼされた中身もある。取りこぼされたものを拾う仕事が、たぶん、私のような退職世代の、最後の使い道なのだろう。これも一つの「まだ若い」への返答のつもりで、私はいまこの文章を書いている。若くはないが、若くないなりに、言うべきことはある、と、ようやく言えるようになった。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。