ワタナベ
覚王山を歩いた。理由はない。地下鉄の行き先表示に「覚王山」と出たから降りた。
日泰寺の参道を上る。
坂だ。ゆるい坂。石畳。両側に店。
若い頃、妻とここに来た。日曜日だった。縁日の日だったかもしれない。妻はまだ妻ではなかった。
アンティークショップがあった場所に、タピオカ屋がある。
陶器屋があった場所に、雑貨カフェがある。
看板が変わっている。壁の色が変わっている。でも建物の形は同じだ。箱は残って、中身が入れ替わる。人も街も、たぶんそういうものだ。
膝が痛い。
左膝。坂の途中で気づく。若い頃は気づかなかった。坂はあったのに、膝はなかった。正確には、膝を意識しなかった。
坂の角度は変わらない。石畳の段差も変わらない。変わったのは体のほうだ。
坂は正直だ。こちらの変化を、そのまま返してくる。
着いた。
日泰寺。タイの寺。名古屋にタイの寺がある。考えると不思議だが、考えなければただの寺だ。仏舎利がある。お釈迦さまの骨。本物らしい。
ずっとここにある。店が変わっても、坂が膝に響くようになっても、仏舎利はここにある。
境内は静かだった。平日の午前。人が少ない。鳩がいた。
帰り道、参道の店でコーヒーを飲む。
窓際の席。さっき上ってきた坂が見える。若い人が上っていく。膝は痛くなさそうだ。
コーヒーはうまい。それだけでいい。
妻に「覚王山に来た」とLINEする。
既読がすぐつく。返信。
「何かお土産買ってきて」
坂のこと、膝のこと、昔ここに来たこと、何も書かなかった。妻も聞かなかった。
お土産を探しに、もう一度参道を歩く。下り坂。膝は下りのほうが痛い。
坂の角度は変わらない。
石畳は変わらない。
仏舎利は変わらない。
店が変わる。
看板が変わる。
膝が変わる。
変わらないものの前を、
変わったものが歩いていく。