ワタナベ
朝早く目が覚めた。理由はない。年を取ると早く起きる。それだけだ。
熱田神宮。まだ誰もいない。
砂利を踏む。自分の足音だけが聞こえる。ざっ、ざっ、ざっ。砂利の道は長い。本宮まで、ただ歩く。
木が高い。朝の光がまだ斜めで、参道の半分は影だ。空気が冷たい。冬ではない。朝だから冷たい。
鶏がいる。
神鶏。境内を歩いている。堂々としている。人を怖がらない。こちらが避ける。
なぜ神社に鶏がいるのか、知らない。調べれば出てくるだろう。調べない。知らないまま見ている。それでいい。
手水舎で手を洗う。水が冷たい。
左手、右手、口、左手。柄杓を立てて柄を流す。作法どおり。
昔は気にしなかった。ざっと濡らして終わりだった。退職してから、なぜか丁寧にやるようになった。時間があるからかもしれない。急いでいないからかもしれない。
水は冷たい。手が赤くなる。
信長塀。織田信長が寄進した塀。
桶狭間の戦いの前に祈願して、勝ったお礼に奉納した。そう書いてある。何百年も前の話だ。
土と石灰と瓦を重ねた壁が、まだ立っている。雨にも地震にも戦争にも残った。
自分は65年しか生きていない。壁に負けている。壁のほうが先輩だ。
本宮に着いた。手を合わせる。
何を祈ったか。うまく言えない。祈りというほどのものでもない。手を合わせて、目を閉じて、少し黙った。それだけだ。
神様がいるかどうかは知らない。いてもいなくても、朝の静かな場所で目を閉じることに意味はある。たぶん。
帰り道、きよめ餅を買う。
妻へのお土産。小さい箱。白い餅にこしあん。昔からある店だ。昔から同じ味だと思う。確かめようがないが、そう思う。
家に帰る。「お参りしてきた」と言う。妻は「あら」と言う。
何を祈ったかは言わない。妻も聞かない。
砂利を踏む音。
鶏の声。
水の冷たさ。
何百年の壁。
何も言わない神様。
何も聞かない妻。
朝の神宮に、
説明のいるものは何もない。