ワタナベ
毎朝コメダに行く。散歩だ。コメダまで歩くから散歩だ。
同じ席。窓際の奥。
注文しない。座ると出てくる。ブレンド。マスターが覚えている。三年になるか。四年か。覚えていない。マスターは覚えている。
「いつもの」とも言わない。言わなくても出てくる。それがいい。
トーストが来る。半分に切ってある。
ゆで卵。小倉あん。名古屋だから小倉あんだ。バターのときもある。気分で変える。今日は小倉あん。
コーヒー一杯の値段でこれが出てくる。東京の人に言うと驚く。名古屋では当たり前だ。当たり前のものがうまい。
新聞を読む。紙の新聞。
スマホでも読める。息子に言われた。アプリを入れてやると言われた。入れてもらった。使わない。
紙がいい。めくる動作がいい。インクの匂いがいい。指が黒くなるのもいい。読み終わった新聞をたたむ動作がいい。
スマホは読み終わりがない。どこまでもスクロールできる。新聞には終わりがある。終わりがあるから読み終われる。
隣の席に若い女性がいる。ノートパソコンを開いている。
コーヒーを飲みながら何か打っている。速い。キーボードを叩く音がかすかに聞こえる。仕事だろう。
自分も昔はああだった。会議の資料。出張の精算。新幹線の中でノートパソコンを開いていた。急いでいた。何をそんなに急いでいたのか。
今は新聞だけだ。急ぐものがない。ゆで卵の殻をむく。急いでむいても味は変わらない。
妻には「散歩に行く」と言って出る。
コメダに行くとは言わない。嘘ではない。コメダまで歩くから散歩だ。帰りも歩くから散歩だ。往復二十分。コメダに四十分。散歩が二十分で喫茶が四十分だが、散歩だ。
妻は知っている。たぶん知っている。何も言わない。
店を出る。ごちそうさま。マスターがうなずく。
帰り道。歩く。空が高い。風がある。いい散歩だ。
角を曲がったところで思い出す。妻に「牛乳を買ってきて」と言われていた。忘れた。コメダで忘れた。新聞を読んでいるあいだに忘れた。
引き返す。コンビニに寄る。牛乳。ついでにあんぱんを買う。妻の好きなあんぱんだ。牛乳を忘れた罪滅ぼしではない。散歩のついでだ。
注文しない。座ると出てくる。
新聞をめくる。指が黒くなる。
ゆで卵の殻をむく。急がない。
散歩だと言って出る。
コメダに四十分いる。
散歩だ。嘘ではない。
牛乳を忘れた。
あんぱんを買った。
罪滅ぼしではない。