ワタナベ
妻が喋った。
トースト。コーヒー。
いつもの朝だ。向かいに妻が座っている。妻もトースト。妻もコーヒー。四十年、同じものを食べている。
「今日もコメダ?」
妻が言った。トーストをかじりながら。こちらを見ないで。
「散歩」
自分はそう答えた。いつもの答えだ。
「散歩」
妻が繰り返した。笑っていた。
知っている。
最初から知っていた。コメダに行っていることを。散歩と言い続けていることを。嘘だと知っていて、何も言わなかったことを。
何年だろう。三年。四年。もっとか。ずっと知っていて、ずっと黙っていた。
「散歩に行ってくる」
立ち上がる。靴を履く。
「牛乳」
妻が言う。背中に。
「買ってくる」
「忘れるでしょ」
忘れる。たぶん忘れる。コメダで新聞を読んでいるあいだに忘れる。
ドアを開ける。風がある。
散歩だ。コメダまで十分。コメダに四十分。帰りに牛乳。今日は忘れない。たぶん。
妻は台所にいる。食器を洗っている。自分が出たことに気づいているのかいないのか。四十年一緒にいると、いちいち確認しない。
「今日もコメダ?」
「散歩」
「散歩」
知っていた。
最初から知っていた。
何も言わなかった。
四十年、同じものを食べている。
四十年、同じ嘘をついている。
四十年、同じ顔で笑っている。