コンピュータサイエンス × デザイン

CSがUIを救うという幻想について

クリック率が上がった。離脱率が下がった。ところで、そのUIは好きですか。

この問いに、ログは答えない。

コンピュータサイエンスをUI/UXに持ち込むと、何かが豊かになる。同時に、何かが静かに消える。その「何か」の正体を曖昧にしたまま、「CS導入でUXが改善される」という話が会議室のスライドに並び続けている。

CSが得意とすることは確かにある。導線を短くする。エラーを減らす。アクセシビリティのボトルネックを見つける。ログを取り、比較し、改善を説明する。これらは探索・最適化・検証の問題として扱いやすく、CSはそこで本領を発揮する。

問題はその次だ。

意味がどう立ち上がるか。美しさがなぜ効くのか。同じUIが、ある人には歓迎され、別の人には排除として働くのはなぜか。これらは目的関数に素直に入らない。入れようとした瞬間、別のものに変質する。

UI/UXには四つの層がある。操作の層(ナビゲーション、情報アーキテクチャ)、認識の層(設計判断の説明可能性)、経験の層(タスク成功率、認知負荷、応答時間)、そして表現・社会の層(愛着、雰囲気、包摂と排除、文化的妥当性)。

最初の三層では、CSはかなり使える。勘を消すのではなく、勘がどこで働いているかを可視化する道具として機能する。速い、迷わない、疲れにくい。地味だが重要な性質を改善できる。

ところが第四層に入ると、事情が変わる。計測しにくいものは、計測できないのではなく、計測した瞬間に別のものになる。にもかかわらず会議では計測可能なものだけが議題になり、それ以外は「今後の検討事項」として棚上げされる。

UXは行動レベルの性能だけでは成立しない。同じ操作効率を実現するUIでも、余白、色彩、タイポグラフィ、わずかなレイテンシの扱いによって、信頼感は大きく変わる。造形は装飾ではない。インタラクションの意味を先回りして書き込む記述装置だ。

生成AIはこの問題を解決しない。案の数を増やすことはできる。だが、なぜその造形言語でなければならないのかという必然は与えてくれない。逸脱や固有性、文脈依存性を圧縮する方向に、便利さは働く。

プロトタイピングにも同じ分裂がある。仮説を検証するプロトタイプと、問いそのものを書き換えるためのプロトタイプは、別物だ。文化的プローブや参加型デザインが重要なのは、答え合わせではなく問いを発生させるためである。

そしてCS導入の核心は、実装よりガバナンスにある。誰がデータを集め、誰がモデルを更新し、KPIと審美判断が衝突したとき何を優先するか。これは技術の問題であると同時に、組織設計と権力配分の問題だ。ログ駆動の最適化は短期指標への過学習を起こしやすい。クリック率は高いが不快なUI、継続率は伸びるが依存を促進する設計は、その典型例である。

だから評価軸も単線では足りない。操作効率や継続率だけでなく、感情反応、包摂性、文化的適合、審美的独自性を並列に置く必要がある。ただし、審美性を指標化することには原理的な難しさがある。数値化はしばしば、偏った規範を中立な顔で持ち込む。

結局、CSのUI/UXへの意義は、デザインを工学に還元することではない。行動最適化として記述できる部分と、意味・審美・社会的判断として残り続ける部分の境界を明示すること。そしてその境界のずれや衝突を、設計対象として引き受けることにある。

CSは万能の翻訳機ではない。むしろ、どこまで翻訳できてどこからできないかを露出させる装置だ。限界を隠さず使えば確かな基盤になる。限界を覆い隠したまま使えば、最後にきれいに残るのは数字だけである。