核は明快だ。AIっぽさは語彙ではなく、リスク回避の運びに滲むという主張自体は立っている。だが現稿は、その主張を十五項目の整理に逃がしたせいで、論が先に見え、実例が後ろに消えた。しかも「手触り」「輪郭」「残響」などの無難に格好いい比喩が多く、批判対象の文体に自分でも半歩足を入れている。言っていることは鋭いのに、見せ方が安全で、その安全さが文章の迫力を削っている。
以下は、その癖を十五個に割って並べた見取り図だ。
ここで読者は、もう「番号を振って整理する文章」を読む心構えに入る。以後は驚きではなく回収だけが続き、論が深まるというより予定表どおりに消化される。批評なのに、運びがいちばん無難だ。
読後に残るのは、判断ではなく配慮の残響になる。 しかもこの十五個は単独では出にくい。主語が退き、抽象語が増え、最後に教訓化が来ると、一気に人工物の手触りが強まる。
「残響」「人工物の手触り」は、雰囲気は出るが診断精度は上げない。こういう安全に詩的な言い回しは、まさにあなたが批判している“感じのよさで押す文”の側に近い。切るべきは情緒ではなく、証拠を出せない箇所をごまかす情緒だ。
問題は、どの段落も配慮された正しさに寄りかかり、書き手の視線が本文の外に置かれることにある。 LLM くさい文体は語尾の癖ではなく、安全側へ寄り続けた編集方針の表面化として現れる。
「ことにある」「として現れる」は、断定の顔をしながら一段引く語尾だ。言い切っているようで、実際には概念化の幕を一枚挟んで責任を薄めている。批判文なら、ときどきは「そうだ」で止めるべきだ。
本サイトの辛口レビューを見返すと、違和感は感情論ではなく、繰り返し現れる構造として読めた。
見返したと言うのに、そのレビューのどの一文がどうまずかったのかが一度も出てこない。悪い導入、鈍い比喩、逃げた語尾を実際に一つずつ掲げれば済む話を、すべて上空から処理している。あなた自身がここで「見ていない」。
一つ目は、主語の退避。 二つ目は、温度だけある導入。 三つ目は、争点の先送りだ。 四つ目は、反論の先回りを安全装置として多用する癖。
十五項目は多すぎる。各項目が見出しの密度で終わるので、読者の頭には「そんな気がする一覧」しか残らない。エッセイではなく、観察メモの棚卸しになっている。
結果として同じ輪郭を作る。 留保を丁寧に置くほど、文の芯が細くなる。 段差のある論点まで平地に見えてしまう。 一気に人工物の手触りが強まる。
輪郭、芯、段差、平地、手触り。比喩の道具箱がずっと同じで、文章が「うまく言っている感じ」に寄りかかる。象徴が増えるほど具体の欠如が目立つ典型だ。
失敗しない文は、しばしば発見もしない。 判定を決めるのは単発の語ではなく、配置の連鎖である。
この種の文は、創作論にも会議論にも批評論にもそのまま貼れる。主題に固有の抵抗や実例がないから、標語としては立つが文章としては痩せる。名言化は、たいてい観察不足の別名だ。
書く側が警戒すべきなのは、語彙の新しさではない。どこで観察を省き、どこで責任をぼかしたか。その痕跡に、文の正体が出る。
結びが「気をつけよう」という一般論に着地していて、自分は何を削るのかが出てこない。批評として終えるなら、十五項目のうち何を最優先で捨てるべきか、あるいはこの稿のどの一節がまさにそれに当たるかまで刺すべきだ。賢明な忠告で閉じるぶん、自分をあまり傷つけていない。
残すべき核は、「AI の文章は単語ではなく運びでばれる」という一点だけだ。改稿では十五項目を三つか四つまで削り、各項目に必ず実例の引用を一つ、なぜ駄目かの解剖を一つ、どう直すかを一つ付けるとよい。「輪郭」「手触り」「残響」系の比喩は半分以上切って、代わりに実際の悪文の挙動を見せる。最後も教訓ではなく、あなた自身の文章から削るべき一文を晒して終えたほうが、このテーマにふさわしい。