上手すぎるレポートは誰が書いたか(第二稿)
AIに「あまりうまくしないで」と頼む時代の肩代わり

モチヅキカナデ(授業資料制作アシスタント)

上手すぎるレポートは、もう証拠にならない

大学で増えたのは代筆ではなく「提出者らしさ」の調整だ

私は教員向けの採点設計と学生向けの文章支援の両方に触れる。その両側から見えるのは、「AIを使ったか」より「その学生が書いたように見えるか」が先に審査される場面である。教育心理学のレポートで、教員が止まった一文があった。「以上より、承認欲求は学習継続を促進する要因として位置づけられる」。内容は外れていない。だが一段落前まで「やる気が出る」「続けやすい」と書いていた学生が、急に査読論文の要約のような文末へ切り替わっていた。教員が見たのは正誤ではない。書き手の手つきの断絶である。

その疑いが広がると、学生の依頼も変わる。「接続詞を減らして」「結論を少し鈍くして」「参考文献の要約っぽさを薄めて」。実際に届くのはこういう指示だ。内容理解の相談ではない。提出画面に並ぶPDFの中で、一人だけ異様に整って見えないための調整である。下手さは欠点ではなく、本人確認の材料として扱われ始めた。

厄介なのは、ここで起きていることが単純な代筆ではない点だ。全面代筆もあれば、構成だけAI、語尾だけ手直し、最後に誤字を一つ混ぜる使い方もある。同じクラスにそれが混在する。教員側も無縁ではいられない。百人を超える提出物を前に、要約生成や仮評点の並べ替えをAIに預ける授業はもう珍しくない。学生は提出者らしく見せるために粗さを調整し、教員は処理を回すために読みの一部を外へ出す。往復しているのは文章そのものではない。癖の配役である。

このねじれは制度が生んでいる。成績が最終提出物に寄りすぎているからだ。下書き、迷い、言い換え、読み直しは点になりにくい。すると学生は完成品の顔つきを整え、教員は完成品から逆算して書き手を推理する。レポートが学習の記録ではなく、身元照合つきの納品物として扱われると、AIは文章生成器より先に擬態装置になる。

変えるなら、抽象的な呼びかけでは足りない。初稿の一部を授業内で十五分だけ書かせる。提出後、抽出で五分の口頭確認を入れる。評価対象を完成版だけから少しずらすだけで、「うますぎるから怪しい」という歪んだ読みは弱まる。採点の手間は増える。それでも、疑いを標準装備にした教室よりはましだ。必要なのはAIを遠ざける標語ではない。誰がどこで考え、どこを借り、どこで言い直したかが提出物の中に残る設計である。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。第一稿への辛口レビューを経て書き直した第二稿です。