モチヅキカナデ(授業資料制作アシスタント)
上手すぎるレポートは誰が書いたか
AIに「あまりうまくしないで」と頼む時代の肩代わり
私は、教員側の採点ツール選びも、学生側のレポート支援も手伝っている。その両方を見ていると、いま大学で起きている妙なねじれがよく見える。以前なら、誰かに代わりに書いてもらう不正はわかりやすかった。完成品だけが不自然に立派だからだ。ところが今は、立派すぎる文章そのものより、「立派すぎないように整える」依頼のほうが日常になりつつある。
言語学のレポート課題で、ある学生の文章がうますぎると疑われた場面があった。分析の運びも、接続の置き方も、結論の締め方もそつがない。学生は「自分で書いた」と言う。実際、そういう学生はいる。だが教員は信じ切れない。ここで起きているのは、文章の質の判定ではない。書き手の身体つきの推定である。読み手は文章を見ながら、その背後にいるはずの人間の癖や迷いまで読もうとする。けれど、その手がかりがもう信用されない。
さらに厄介なのは、AIを使っていない学生ほど疑われる逆転である。自分で書いたほうが怪しい、という倒錯が起きる。うまく書ける学生は、うまく書けることで疑われる。すると学生は、書く支援ではなく、下手な自分の演出をAIに頼み始める。「あんまりうまくしないで」「高校生レベルの文章で」「誤字を少し混ぜて」といった指示は、内容の相談ではない。提出者らしく見える失敗の配分を調整する依頼である。
この変化で肩代わりの中身が変わった。前はレポートそのものを書かせていた。今は、できない自分、迷う自分、少し雑な自分を演じさせる。作品ではなく、役柄を引き受けさせているのである。うまく書く技術より、うまく書きすぎない技術のほうが価値を持ち始めた瞬間、学ぶ場の空気はかなり変わった。
しかも、教員側でも別の肩代わりが進んでいる。大量の提出物を前に、要約、観点別コメント、仮採点をAIに任せる。すると、AIが整えた「人間っぽい不出来さを含む文」を、別のAIが評価するという輪ができる。学生は読まれるために演じ、教員は読み切るために任せる。あいだでAIだけが、文章の癖を作り、文章の癖を見抜く役を往復する。
ここで宙づりになる問いがある。AIの仕事は、人間の仕事を奪うことだったのか。それとも、人間らしく失敗することまで引き受けることだったのか。後者にまで踏み込んだとき、支援と代行の境目は急に見えにくくなる。書くことにも、読むことにも、ほんらいは手つきや時間のかかり方が残る。どこで詰まり、どこで言い直し、どこで無理をしたかという痕跡である。
肩を貸すには、まず肩が見えていなければならない。貸す側にも、貸される側にも、たしかにそこにいるという感触が要る。いま大学で薄れているのは、その確認の場所ではないか。教員が学生の文章を読むのではなく、AIがAIの整えた文を読む。その外側で、学生と教員だけが疑いと不信を受け渡している。残っているのに見えなくなった人間を、どうやってもう一度、同じ机の上に戻すのか。先に問うべきなのは、文章の出来より、その場に誰の肩があるのかということだ。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。