アケチサトミ(51歳・花屋28年)
花屋の朝は水替えから始まる。水を抜き、バケツの内側のぬめりを指で洗い、新しい水を張り、花を一本ずつ切り戻す。花屋は咲いている花を売る商売ではない。咲いている時間を売る商売だ。一九九八年、私はそれを習いに、市場の脇の古い店に入った。
店主は寡黙な六十代の女性で、仕入れはセリで決まった。毎朝四時前に軽トラで市場へ出て、私は店で水を替えて帰りを待つ。捨てる花は前の晩に言いつけられる。見ればわかるから捨てておいて、と。
その年の五月、初めて自分の判断で捨てた。だが目の前の花は、どれもきれいだった。花びらは落ちていない。色も褪せていない。どこを捨てるのか、わからなかった。目で見てもわからない。
判定は指でする。茎を引き上げ、根元を挟む。ぬめりがあれば、もう中で終わっている。表に出ていなくても、水を上げる力は残っていない。もう一つは花首の角度。茎の先で花がわずかに垂れていれば、見頃は過ぎている。花は捨て時を、顔ではなく茎で知らせる。これを習ったのはあとのことで、その朝の私はまだ、指で挟むことを知らなかった。
だから一本ずつ挟んでみた。ぬめる茎を捨てる山に分けていく。そのうち、捨てる山の中に、根元の硬い茎が混じっているのに気づいた。花首は垂れている。けれど茎はまだ生きている。同じ一本を、私は二度挟んだ。一度目は捨てると決め、二度目に、それを引き返した。硬い茎のものを選び直し、店先の見切りバケツに挿す。一本五十円。棚には出せないが、捨てるには早い。誰に習ったのでもなく、その朝に決めた。店主は帰ってきて、見切りバケツを一瞥した。何も言わなかった。
一年で最も仕入れ、最も捨てる二日間がある。母の日だ。前日の土曜、店主はカーネーションを三百本仕入れた。普段の十倍だ。日曜の夕方から値を下げる。それでも六十本ほどが残る。月曜の朝、私はそれを捨てる。袋にすると三つ。提げると腕が斜めに引かれた。水を含んだ花は重い。咲いているほど重い。店先からごみ置き場まで、二往復した。
捨てるのも仕入れと同じ技術だ、と店主は言った。何本仕入れて何本捨てるかを読むのが花屋の腕だと。捨てる数を恐れて仕入れを絞れば、母の日の昼に棚が空く。空いた棚は、来年の客を減らす。三百本を仕入れ、六十本を捨てる。その六十本は、腕が読み損なった数ではなく、二百四十本を売り切るために要る数だった。
二十八年、直した水の数も、捨てた花の数も覚えていない。覚えているのは、捨てる山から引き返した茎の感触だ。硬いまま、まだ五十円で売れた、あの一本。今朝も私は、茎を一本ずつ挟んでいる。