アケチサトミ(51歳・花屋28年)
「お供えにしたいんですけど」。この一言で、私の手は別の引き出しを開ける。お悔やみの花には作法がある。白を基調にして、棘のあるバラは避ける。香りの強すぎる花も避ける。ユリでも、カサブランカのように匂いの立つものは、四十九日までは控える。仏前は閉じた空間だ。匂いは、長くそこに残る。
白い菊と一口に言っても、何種類もある。輪の大きい白の大菊、こんもりと丸いピンポンマム、小さく群れて咲くスプレー菊。仏花の主役は大菊だが、それだけでは硬い。だから私は、白のスプレー菊と、白のトルコギキョウを足して、輪郭をやわらげる。窓の外に夕暮れが落ちて、白い花だけが店の奥でほのかに光って見える、そういう時間に、私はよくお供えを組む。
棘を落とすかどうかは、花による。バラはそもそもお供えに使わないが、稀に「故人が薔薇好きで」と言われる。そのときは棘をすべて落とす。仏前で誰かの指を刺さないように、というのは表向きの理由で、本当は、棘のある花を手向けるのが忍びないのだと思う。トゲは、生きている花の武器だ。送る花からは、武器を外す。
ラッピングにも色の決まりがある。お祝いなら赤やオレンジを使うところを、お供えは紫と銀でまとめる。紫は弔いの色、銀はその控えめな相棒だ。リボンはかけないか、かけても結ばずに垂らす。包みの中で、花がいちばん静かに見えるように。色を抜いていく作業なのだと、私は思う。
お供えの花には暦がある。四十九日までは白で固める。忌が明ければ、薄い色を一、二輪入れてよい。初盆には少しあらたまって、菊を中心に整える。命日は、その家ごとの花になる。だから注文を受けると、私はまず日付を訊く。「失礼ですが、いつのお供えでしょう」。日付が決まれば、白の濃さが決まる。
葬儀社からは、発注書が一枚届く。供花二基、芳名は別紙、納品は何時、と事務的に並んでいる。私はそれを淡々と組む。手は動くが、心は動かない。式場の花は、規格だ。大きく、立派で、名前が見えればよい。誰も一本ずつの茎を見はしない。
けれど、個人がぽつんと買いに来る一束は、まるで違う。先日も、命日に毎年来る年配の男性が、いつものように店先に立った。もう十年以上になる。奥様の好きだった花を、と最初の年に言われて、それから毎年、白に薄紫を一輪。男性は花を選ぶというより、花の前で長く立っている。お供えの客の時間は、どの注文より長い。選んでいるのは花ではなく、言葉の代わりなのだ。手向ける花は、言えなかった言葉の器なのだと思う。
最近は「故人が好きだった色で」という注文が増えた。白一色の決まりが、少しずつ緩んでいる。黄色が好きだった、青が好きだった、と言われれば、私は白の中にその色を編み込む。決まりは大事だけれど、決まりより大事なものがあると、二十八年やってきて、いまでは思う。お供えの白は、悲しみの白ではない。残された人が、もう一度その人と向き合うための、静けさの白なのだ。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。