アオヤギレン(34歳・動物園飼育員12年)
春になると、赤ちゃんが生まれる。生まれると、名前を公募する。正門の脇に応募箱が置かれ、その前を通るたび、私はいつも少しだけ立ち止まってしまう。動物に名前をつけるという行事に、人がこんなに集まるのかと、毎年あらためて思う。
応募用紙には流行がある。その年のドラマの主人公の名、人気の菓子の名、それから、«かわいい» と感じさせる音の傾向。「ココ」「モモ」「ソラ」。柔らかい母音が、用紙の升目を埋めていく。集計する事務の人が、今年は去年より「ら行」が多い、と笑っていた。名前にも、その年の空気が降りているのだろう。
けれど私たち飼育員は、その名で呼んでいない。私の日誌のなかで、その個体は識別番号と、体の特徴で呼ばれている。右耳に切れ込みのある個体。左前脚を少しかばう個体。鼻すじの白いほう。タグの番号と、私が見つけた特徴。それが、飼育員側の名前だ。公募で決まった名は、いわば、お客さん側の名前なのだ。
命名式の日、決まった名前がパネルになって獣舎の前に掲げられる。「なまえがきまりました!」という見出しの下に、選ばれた一語と、応募してくれた方の名前。式が終わると、客はそのパネルを写真に撮り、名前を呼ぶ。さっきまで「あの白いの」だった個体が、その瞬間から「ソラちゃん」になる。名前は、たしかに人と動物のあいだに、温かい橋を架けるのだ。
名前がつくと、客の足が変わる。これは数字でも出ている。名前のない区画の前を、客は平均すると十数秒で通り過ぎる。名前のパネルが出た区画の前では、立ち止まる時間が倍ほどになる。名を知った相手のことは、もう少し見ていたくなるのだろう。私はその様子を、給餌の合間に、なんとなく眺めている。
面白いのは、私たちの呼び方は、命名式のあとも変わらないことだ。日誌には相変わらず番号を書く。右耳に切れ込みのある個体の残餌、と書く。「ソラ」とは書かない。客が名で呼び、私が番号で記録する。同じ一頭が、柵をはさんで二つの名を持っている。柵の内と外で、名前の体系が違うのだ。
そして、その個体が死んだとき。死亡公示の貼り紙は、番号ではなく、名前で出す。「ソラが、◯月◯日に亡くなりました。長らくご愛顧いただき、ありがとうございました」。番号で記録してきた私たちが、最後のその一枚だけは、客の名で書く。死もまた、客との取り決めのなかにある出来事なのだと、貼り紙を貼りながら思った。
名前とは、結局、動物そのものではなく、動物と人とのあいだに架けられた橋なのだろう。番号は記録のため、名前は心のため。どちらが本当ということもない。二つの名を持つことで、その一頭は、私たちの世界と客の世界、両方に生きることができる。応募箱の前を通るとき、私が立ち止まってしまうのは、たぶんそのことを知っているからだ。
今年も応募箱が置かれた。覗くと、いちばん上の用紙に、丸い字で「モモ」と書いてあった。私の日誌では、その子はまだ、鼻すじの白いほう、だ。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。