アリムラサキ(27歳・コールセンターオペレーター5年)
声だけで人と会う仕事をしている。研修で最初に渡されるのはトークスクリプトという台本だ。「お電話ありがとうございます」「恐れ入りますが」。台詞は決まっていて、迷う余地がないように作られている。よくできた台本だ。注文、変更、キャンセル、クレーム。どの枝をたどっても、最後は「ほかにご不明な点はございませんか」の一点に合流する。台本の外に出る道は、設計されていない。
2021年の秋。私はコールセンターに入って半年で、目標の平均処理時間は一件五分。私の実績はまだ六分半で、毎朝、前日の平均が貼り出される表の下のほうにいた。早く合流地点にたどり着くことが、その頃の私の仕事のすべてだった。
その日の相手は、注文番号でしか知らない人だった。年齢は、復唱したときの間でわかる。こちらが品番を読み上げると、書き取るために一拍置いてから「はい」と返す。その一拍が長い人は、たいてい年配の方だ。注文は「乳酸菌のサプリ、定期便の追加一本」。画面に金額が出て、復唱して、あとは合流地点の台詞を言えば、通話は四分台で閉じるはずだった。
ところがその人は、復唱の「はい」のあとに、こう続けた。「これね、主人が毎朝飲んでたの」。注文は終わっている。スクリプトに、この一言を受ける分岐はない。私は頭の中で枝を当てた。クレームの枝ではない。変更でもキャンセルでもない。どの枝にも当たらなかった。当たらないあいだ、通話には沈黙が空く。沈黙は通話では事故だ。後処理の画面には、無音が三秒続くと色が変わる。
三秒のうちに、私の口から出たのは「そうでしたか」だった。台本に載っていない四文字だ。相手は少し黙って、それから「聞いてくれてありがとうね」と言って、自分から切った。通話時間は六分二十秒。その日の私の平均を、また少し押し上げた数字だった。
その月は、新人の通話が無作為に抜き取られて確認されていた。翌週、私の対応記録に一行付いていた。「合流まで二分超過。スクリプト外応答あり」。丁寧だとも、悪いとも書いていない。逸脱した、という事実だけが、秒で記録されていた。「そうでしたか」には、評価表のどの欄にも置き場所がなかった。
それから五年、私の平均処理時間は四分二十秒まで縮んだ。合流は速くなった。けれど私はいまも、合流の手前で空く三秒のほうを数えている。あの沈黙のあいだに、台本のどの枝にも当たらない一言が、毎日いくつも漏れている。昨日は「これ、孫が好きでねえ」、その前は注文番号の下四桁を二回言い直した人の、二回目の声。台本は分岐を全部用意していると、新人の私は思っていた。いまは、当たらない枝の数を数える係になっている。