アサギリトモ(39歳・空調設備のメンテナンス17年)
古いビルのセントラル空調には、冷房と暖房を同時には出せないものがある。一本の配管に、夏は冷たい水を、冬は温かい水を流して、それを建物じゅうに巡らせる仕組みだ。だから春と秋に、年に二度、水を入れ替える日が来る。冷水を抜いて温水を入れる。あるいはその逆。これを冷暖切り替えと呼ぶ。季節の変わり目に、私たちは機械室でビルの衣替えをする。
切り替えの日をいつにするか。これがいちばん難しい。暦は当てにならない。十月でも夏日が戻ることがあるし、五月の朝に冷え込むこともある。だから私は暦ではなく、外気温のトレンドを見る。気象台の過去一週間と向こう一週間の予報を並べ、最低気温が何度を下回る日が続くか、折れ線がどちらへ傾いているかを見る。一日の気温ではなく、線の向きで決める。点ではなく、傾きを読む、とでも言えばいいだろうか。
それでも、切り替えの日は誰かに恨まれる。早く暖房にすれば「まだ暑い、汗をかく」と言われ、遅らせれば「寒くて仕事にならない」と言われる。同じビルの中で、南側の窓際は暑く、北側の奥は寒い。私はいつも、早すぎる苦情と遅すぎる苦情の、ちょうど真ん中で板挟みになる。どちらに倒れても、半分の人に怒られる。切り替えの日とは、誰も満足しない日のことなのかもしれない。
日が決まれば、作業そのものは段取り通りだ。まず冷房側のバルブを閉め、暖房側のバルブを開ける。配管の中の冷たい水を抜き、ボイラーで温めた温水を押し込んでいく。何本ものバルブを順番に開閉して、水の道を冷から温へ組み替える。最後に試運転をかけ、各階の吹き出し口に手をかざして、ちゃんと温風が出ているかを確かめて回る。半日がかりの、地味な肉体労働だ。
切り替えた、その直後に電話が鳴る。「暖房に変えたはずなのに、ちっとも暖かくない」。これがいちばん多い。けれど、これは故障ではない。配管の中には、さっきまで流れていた冷たい水がまだ残っている。それが温水にそっくり入れ替わるまでには、建物の大きさにもよるが、一時間や二時間はかかる。蛇口をひねってすぐにお湯が出ないのと同じだ。私は受話器の向こうに、その時間差を、毎回ていねいに説明する。「いま水が入れ替わっている途中です。もう少しだけお待ちください」と。
いちばん厄介なのは、切り替えの前後にある中間期だ。朝は冷え込んで暖房が欲しいのに、昼を過ぎると日が差して冷房が欲しくなる。一日のうちで、欲しいものが裏返る。けれど、冷房か暖房かのどちらか一本しか出せない設備に、その注文は応えられない。私はこの季節、「申し訳ありませんが、この建物はいま、どちらか片方しか出せないのです」と言い続ける。設備の限界を、苦情の人に角を立てずに伝えるのは、バルブを回すよりずっと難しい。
新しいビルには、こんな悩みはほとんどない。いまは部屋ごとに冷暖を選べる個別空調が当たり前で、隣の部屋が暖房でも、こちらは冷房にできる。切り替えという行事そのものが要らない。それでも、個別空調の時代に取り残されたように、セントラルの古いビルはまだ残っている。私が年に二度通うのは、そういう建物だ。新しい建物が忘れた手間を、古い建物はまだ私に求めてくる。
切り替えが無事に終わると、最後に完了報告書を書く。開けたバルブ、閉めたバルブ、試運転の結果、各階の吹き出し温度。事務的な紙だ。けれど、その紙にサインを入れて機械室を出るとき、外の空気がもう前の季節ではないことに気づく。建物の中の水を入れ替えた日は、私にとって、季節が変わった日でもある。暦が変えるのではない。私がバルブを回した日に、そのビルの季節は変わる。
切り替えの日が、ビルの衣替えなのだ。人が衣替えで冬服を出すように、建物も年に二度、中を流れる水を着替える。その手伝いをするのが、私の春と秋の仕事だ。誰にも気づかれない機械室の中で、私は今日も、季節の変わり目に立ち会っている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。