テンプの、振り
工房一年目、部品ではなく振りを見ると決まるまで

アシヤノゾミ(33歳・時計修理技能士11年)

時計の修理を十一年続けている。机の上にはいつも、注油の油壺と、ピンセットと、ルーペが置いてある。油壺の油は、針の先ほどの一滴を運ぶためのもの。多すぎても少なすぎても、時計は止まる。この一滴の加減を覚えるのに一年かかり、迷わなくなるのに、もう一年かかった。

機械式時計の中には、テンプという部品がある。輪のかたちをした調速機で、左右に振れることで時を刻む心臓の鼓動のように時間を生み出している。一秒間に何度振れるか、どれだけの角度で振れるか。その振りこそが、時計の体調そのものなのだ。

工房に入ったのは二〇一五年の春だった。窓の外には柔らかな陽が差していて、工房の中には金属と油の匂いが静かに満ちていた。私の机には、何十年も前の自動巻きの時計が置かれていた。古い味のある一本で、文字盤のあちこちに時代の名残が顔を出していたと思う。

オーバーホールという作業がある。ケースを開け、輪列を一つずつ外し、洗浄液に通して洗い、注油して、また組み直す。私はその日、外した部品を一つずつ並べ、傷がないか、摩耗していないか、目を皿のようにして点検していた。部品はどれも美しく、欠けたところは見当たらないように思えた。

師匠は私の手元をしばらく見ていた。それから、タイムグラファーという測定器の上に、組み上がった機械を載せた。針の音を拾って、進み遅れと振り角を数値で出す機械だ。画面には、数字が並んだ。師匠は言った。「部品を見るな。振りを見ろ。テンプの振り角が、時計の体調だ」。それだけだった。

私はルーペの倍率を上げて、テンプの振りを覗き込んだ。タイムグラファーの数値は二百四十度を切っていた。健康な振り角ではない。けれど部品はどれも綺麗だった。注油が、多すぎたのだ。針の先の一滴のつもりが、ほんの少し、輪列に余分に乗っていた。油は多すぎても抵抗になる。私は組み直した時計を見て、しばらく、その意味を考えていた。

その自動巻きには、ゼンマイに巻き癖が残っていた。自動巻きは持ち主の腕の動きでゼンマイを巻く。よく動く人の時計はよく巻かれ、動かない人の時計はゆるい。巻き癖は、持ち主の手首の暮らしの記録なのかもしれない、と思った。止まった針は十時十分を指していた。けれどそれは、持ち主が最後に見た時刻ではない。巻きが切れて、止まるまでの惰性のぶんだけ、針は先に進んでいる。針の位置は、最後の時刻を語らない。

地板の裏に、細いヤスリの跡があった。前にこの時計を直した人の手の痕だった。注油の位置にも癖があって、私とは少し違う場所に油溜まりが作られていた。名前も知らない先人が、何十年か前に、同じようにこの機械を開けて、振りを見て、組み直したのだ。私はその癖を、なぞるように引き継いだ。

あれから十一年。直した時計の数は、もう覚えていない。時計の修理とは部品を直す仕事だと思われがちだが、本当は、振りを読む仕事なのだと、いまでは思う。テンプの振りは、時計の体調であり、持ち主の暮らしであり、先人の手の記憶でもある。あの春の日に師匠から受け取った一言が、私をいまの私にしてくれた。机の上の油壺とルーペは、今日も静かに並んでいる。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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