アソウミレイ(44歳・宝石鑑定士22年)
ダイヤモンドは、ある意味では易しい石だった。無色を無色と比べ、傷を数える。けれど色のついた石——ルビー、サファイア、エメラルド——の鑑別は、別の難しさがある。色がきれいであることと、その石が何であるかは、まったく別の物差しなのだと、私はこの部屋で何度も思い知らされてきた。大地が長い時間をかけて生んだ奇跡の結晶を前に、私はきれいさをいったん脇に置く。
色石でいちばん難しいのは、おそらく産地の推定だろう。同じルビーでも、ミャンマー産とモザンビーク産では値段が桁で違う。けれど色だけ見ても、産地は分からない。手がかりは、石が地中で抱え込んだ内包物の癖だ。ミャンマーのルビーには、細く短い針が交差して綿のように見えるシルクが出ることがある。スリランカのサファイアには、長く伸びた絹と、薄い色の帯。マダガスカルの石にはまた別の顔がある。内包物は、その石が生まれた土地の指紋のようなものだと思う。
けれど指紋は、いつもくっきり残っているわけではない。きれいな石ほど内包物が少なく、産地の証拠も乏しい。そういうとき、私はためらいながらルーペを置いて、分光のデータと照らし合わせる。微量元素の比率が、土地ごとに少しずつ違う。鉄が多いか、クロムが効いているか。色のもとになっている元素の配合が、生まれの証言になる。それでも複数の産地の可能性が残ることは、珍しくないのかもしれない。
産地と並んで、加熱の有無は色石の値段を大きく動かす。ルビーやサファイアは、焼くと色が冴える。地中で半端だった発色が、千数百度の熱で整う。市場の多くの石は焼かれていて、それは認められた処理だ。けれど焼いていない——非加熱の石には、別の価値がつく。だから私は、熱で消える証拠を探す。加熱されたサファイアは、内包物の針が熱に負けて溶け、点々と切れる。治癒した割れの縁が、白くにじむ。焼いた石は、焼いたという履歴をわずかに体に残している。それを顕微鏡の中で読み、非加熱であることを、消極的にではなく積極的に証明する。
エメラルドはまた事情が違う。この石はもともと内部に細かな割れを抱えていて、ほとんどの石が透明度を上げるためにオイルや樹脂を割れに含浸させてある。いわば、透明度の化粧だ。オイルは時間で抜けるが樹脂は残る。割れに浸み込んだ充填物は、十倍のルーペの中で、虹色の膜や、平らな反射として見える。私は化粧の厚さを見る。無処理に近いのか、たっぷり詰めてあるのか。きれいな緑の奥に、どれだけ手が入っているか。
そして、合成石。人がつくる色石は年々うまくなっている。フラックス法で育てたルビーは、天然そっくりの指紋状の内包物まで持つ。熱水法のエメラルドは、本物と見まがう緑をたたえている。天然と合成の見分けは、鑑別の最前線だ。それでも合成には、人の手の癖が出る。流れたような縞、つくられた環境の不自然な均一さ。天然が抱える時間の乱雑さを、合成はまだ完全には真似できない。私は乱雑さの側に天然の証拠を探す。
機械にも目にも、限界の石がある。どの技法を使っても、天然か処理済みか、産地はどこか、決め切れない石が来る。若いころの私は、何か書かなければと焦った。けれど鑑別には「分からない」と書く制度がある。鑑別困難。判定保留。それは敗北ではなく、嘘をつかないための勇気の欄なのだと、いまでは思う。分からないものを分からないと書けることが、分かるものを分かると書ける根拠になっている。
先日、ひとりの女性が、祖母の指輪を持ってきた。古いルビーの指輪だった。鑑別の結果しだいで、それは由緒ある非加熱の天然ルビーにも、ありふれた加熱石にもなる。値段が変わる。彼女はカウンターの向こうで、私がルーペを覗くのを黙って見ていた。私はいつものように、淡々と石を伏せ、横から見て、針の溶け方を確かめた。結果が誰かの何かを変える瞬間に、私はただ、あるものをある、と書く側にいる。
色のきれいさと、石の素性。この二つは、別々の物差しで測られる。きれいな石が安いこともあれば、地味な石に高い値がつくこともある。客はきれいさを見て、私は素性を見る。色のきれいさを脇に置いて素性を読むこと、それこそが色石の鑑別なのだ。二十二年、私が覚えているのは、きれいな色ではなく、針の溶け方と、化粧の厚さと、指紋のかすかな癖だった。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。