アソウミレイ(44歳・宝石鑑定士22年)
宝石を見て暮らして二十二年になる。机の上にはいつも、十倍のルーペと、ピンセットと、白いトレイが置いてある。客はみな、石を「きれい」と言って持ってくる。永遠の輝きを閉じ込めた、と言う人もいる。けれど私の仕事は、そのきらめきに名前と等級をつけることだ。きれいかどうかは、私の管轄ではなかった。
二〇〇四年の春、宝石学の資格を取って、鑑別の機関に入った。二十二歳だった。世の中には二つのよく似た言葉がある。鑑定と鑑別。鑑定は値段や品質を見極めること、鑑別はそれが何であるかを判定すること。天然か、合成か。処理がされているか、いないか。私が配属されたのは、後者の部屋だった。事実を判定する部屋である。
最初の数週間、私は石をきれいだと思いながら見ていたと思う。指輪にされたダイヤモンドを光にかざすと、虹色の火が散る。色石のサファイアは、深い海のような青をしていた。美しいものを見る仕事に就いたのだと、どこかで誇らしく感じていたのかもしれない。
その思い込みを、先輩がひと言で崩した。検査台の向こうから、ルーペを覗いたまま、こちらも見ずに言った。「きれいかどうかは見るな。何であるかを見ろ。きれいは客の仕事、何であるかがうちの仕事だ」。私はその意味をしばらく考えていた。きれいを見てはいけない仕事が、この世にあるのだ。
ダイヤモンドのグレーディングには4Cという四つの軸がある。カラット、カラー、クラリティ、カット。カラットは重さだから機械が量る。けれどカラーとクラリティは、目だ。マスターストーンという基準の石を並べ、わずかな色の差を肉眼で比べていく。Dの隣にEを置き、EとFのあいだで迷う。機械にできない判断を、人がするのだと思った。
色石はもっと難しい。天然か合成かは、内包物の形でわかる。天然の石には、長い時間が残した傷がある。針のような結晶、指紋のような割れ、虹色に光る薄い膜。いっぽう合成石には、人がつくった証拠が出る。まるい気泡、流れたような縞。十倍のルーペの中で、私は傷を探すようになった。傷こそが、その石の履歴書だった。
処理を見抜くのも仕事のうちだ。サファイアやルビーは加熱して色を整えることがある。ひびにガラスを含浸させて、透明度を上げた石もある。照射で色を変えた石もある。市場ではそれらの多くが慣行として認められていて、けれど開示はされなければならない。処理がしてあるかどうかを、淡々と見て、淡々と書く。良い悪いではない。あるかないか、だ。
やがて機器が増えていった。分光器が光の吸収の波形を描き、ラマンが石の正体を分子のレベルで告げる。目で見抜けないものを、機械が見抜く時代になった。それでも最後に石を覗くのは、人の目だった。波形を読んで、ルーペに戻る。機械と目の分担は変わっても、覗くという仕事だけは残った。
鑑別が終わると、レポートが一枚出る。石に名前と事実を与える紙だ。天然ダイヤモンド、無処理、と書かれたその紙は、たいてい婚約指輪の裏側にしまわれる。永遠を誓う日の、その永遠を保証するのは、私が覗いた十倍の中の小さな傷たちだった。あの日、きれいを見るのをやめたことが、私をいまの私にしてくれたのだと思う。今日も机の上で、ルーペは静かに光を待っている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。