タカハシセイイチ(家計アドバイザー)/『お金の慣用句 — 直観と複利のあいだ』#1
家計相談の窓口にいると、客の口から同じフレーズが繰り返し出る。「ベスト30日を逃したらどうしよう」。下落中で売りたいのを踏みとどまる理由として、この一文がよく出てくる。最初は安心の呪文だと思って聞き流していた。最近、これは呪文より深い装置だと考えるようになった。
表で言われていること——S&P500 の過去30年に投資し続ければ年率10%前後。そのうち最も上昇した30営業日を除外すると、年率は半分を割る。30営業日は7,500営業日のうちのわずか0.4%。だから、その薄い層に「居合わせる」ためにも、市場に居続けよ。よく見る数字で、よく見る論理だ。
裏でも同じことが言える——同じ計算は反対側にもある。最も下落した30日を除外すれば、年率はさらに伸びて15%を超える。ベストとワーストは、確率的に対称だ。なのに、人間の感情では対称ではない。逃した利益の悔いは、避けられた損失の安堵より重い。これがこのフレーズに保存されている、第一の不均衡である。
もう一段下の話——対称性の指摘で止まると、まだ表面しか見ていない。問題は「ベスト30日を逃す」という動詞の選び方そのものにある。逃すとは、捕まえる相手がいる動詞だ。バスを逃す、機会を逃す、魚を逃す。捕まえることが原則として可能で、なんらかの理由で取り損なった、という時間の構造を持つ。
"逃す"が密輸する主語——フルインベスト戦略をとる投資家は、ベストの日に「居合わせている」のではなく、ただそこに「居続けている」。捕まえる主体としての行為がない。にもかかわらず「逃す」を使うとき、私たちは知らずのうちに、自分は能動的にその日を捕まえに行ける誰かだ、という前提を引き受ける。動詞が、ありもしない主語を後ろから押し込んでくる。
配給という比喩——リターンの大きい日が一握りに集中するという事実は、市場の性質であって、投資家の手柄ではない。雨が降る日と降らない日があり、傘の下にいたか外にいたか、それだけだ。降った雨の量は、傘の下にいた人の祈りで増えたわけではない。「逃した」と言えるためには、雨を捕まえる技術が必要で、その技術が誰かに売られていなくてはならない。
業界の存在基盤——家計相談の現場で気づくのは、このフレーズが「だから手数料を払う価値がある」の前段になっていることだ。逃さないために、戦略が要る。戦略には人が要る。人には報酬が要る。「逃す」を「居合わせない」と訳し直してしまうと、この連鎖がすべて崩れる。居合わせないなら、そもそも誰も払う必要がない。
人生のほうのベスト30日——書き出してみる。私の人生で本当に良かった日を上から30日。書ける人は少ない。書けたとしても、そのほとんどは自分の意思で起こしたものではない。ある人と隣の席になった、ある電話が鳴った、ある雨の駅で待たされた。能動の言葉で書こうとすると、すべて違和感が残る。私はその日を「捕まえた」のではなく、その日に「居合わせた」のだ。
言い換えてみる——「ベスト30日を逃すと損をする」を、主語を抜いた中動態に書き直すと、「ベスト30日が来るとき、そこに自分がいるか、いないか」になる。意味が萎んだように見える。萎んだぶんだけ、フレーズが盛っていた能動性の量がわかる。投資文学が私たちに売り続けてきたのは、リターンそのものではなく、リターンを「自分が稼いだ」と感じられる文法だったのかもしれない。
窓口に戻る。客には、対称性の話まではよく届く。動詞の話までは届きにくい。それでも、「逃す」という言葉が出たら、私はもう一度尋ねるようになった。「捕まえようとしていたんですか?」。たいていは、口ごもる。捕まえようとしていなかったことに、客自身が薄々気づく。気づいた瞬間に、その日の相談はもう、お金の話でなくなっている。
——補記:この第一稿は公開後に辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。3稿を並置しています。