リンメイファ(台湾出身)
台湾の日常に溶け込む「不好意思」。この四文字は、時に謝罪の意を、時に呼びかけの声を、そして時には配慮を示すサインとして、実に多様な場面で耳にします。その射程の広さは、日本の「すみません」という言葉のそれとは、しばしば異なる軌跡を描いているように感じられます。私にとって「不好意思」は、単なる詫びの言葉に留まらず、人と人との間に生じる小さな摩擦や、相手への敬意、あるいは協力への期待といった、多層的な意味合いを包含しているのです。
例えば、混雑した市場で少し人にぶつかった時、「不好意思」と軽く口にする。あるいは、レストランで店員を呼ぶ時も、「不好意思」と声をかける。道を尋ねる際や、誰かの前を横切る時にも、この言葉が自然と出てきます。それは、相手に軽い迷惑をかけるかもしれない、少しだけ注意を向けさせたい、という、ほんのささやかな気兼ねや配慮を示す言葉として機能しています。また、誰かに何かを依頼する際にも、前置きとして「不好意思」を添えることで、相手への負担を気遣う気持ちを伝えることができます。
対する日本の「すみません」は、謝罪、感謝、そして軽い依頼や呼びかけに用いられる点で「不好意思」と共通する部分もあります。しかし、店員を呼ぶ場面や、道で人に道を譲ってもらいたい時などでは、「すみません」が持つ「申し訳なさ」や「恐縮」といったニュアンスが、台湾の「不好意思」よりも一歩深く感じられることがあります。この微妙な重さの違いが、両者の使い分けに大きな影響を与えているのです。日本語話者にとって「すみません」は、時に感謝の気持ちを伝える際にも用いられ、その多義性もまた、この言葉の深さを示しています。
特に、日本の文化では、他者の空間を侵すことへの遠慮が強く、店員を呼び止める行為一つをとっても、過剰なほどに丁寧な態度が求められる場合が少なくありません。「すみません」と言うことで、その一瞬の介入に対する謝意を表現しているのかもしれません。しかし、台湾では、同じ状況で「不好意思」を使うのは、もっと気軽に、そして日常的なコミュニケーションの一部として捉えられています。これは、社会全体が持つ、他者への介入に対する閾値の差から来るものでしょう。台湾では、互いの存在を前提とした上での、柔軟な相互作用が重視される傾向にあると私は思います。
また、道で人とすれ違う際に、少し立ち止まって道を譲り合おうとする時、台湾では「不好意思」と軽く言葉を交わすことで、互いの気配りを促し、スムーズな流れを作ることがよくあります。これは、単なる謝罪ではなく、相手への配慮や、空間を共有する上での共生意識のようなものが込められているように思えます。日本の「すみません」も同じような役割を果たすことはありますが、その場面における言葉の軽やかさには、違いがあるように感じます。日本人の中には、台湾の人が「不好意思」を多用するのを耳にして、「なぜそんなに謝るの?」と疑問に思う方もいらっしゃるでしょうし、逆に台湾の私からすると、日本の「すみません」が、些細なことにも重すぎる印象を受けることが正直なところです。
この違いは、単なる語彙の差に留まらず、社会的な相互作用における暗黙の期待や配慮の作法に深く根差していると言えるでしょう。「不好意思」は、自己の行動が他者に与えるかもしれない小さな影響への気遣いを、より気軽に、そして包括的に表現する手段として機能しています。それは、互いの存在を認め合い、円滑な社会生活を築くための、台湾流の「やわらかな接着剤」のような役割を担っているのかもしれません。この言葉一つから、それぞれの文化が育んできた人間関係のスタイルが垣間見えるのは、非常に興味深いことです。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。