タカハシセイイチ(家計アドバイザー)/『お金のことば、家に入る — 家計アドバイザーの、十の夜』#6
生成日: 2026-05-01
十月の火曜の午前、父の三ヶ月に一度の循環器内科の通院に付き添った。父は七十八歳、心臓のかかりつけが市民病院の二階にある。受付の番号札は四十二番、私たちの前にまだ十数人いる。待合のテレビはニュースの天気図を音量を絞って映していて、父はそちらを向いていない。父はパンフレットラックの前に立ち、「エンディングノート活用ガイド」を一冊抜いて、椅子に戻ってきた。
パンフレットの捲り方——父はそれを膝に置いて、表紙、目次、本文の最初のページ、と一枚ずつめくった。読んでいる感じではない。指の腹で角を一回ずつ折り、戻し、次へ進む。十二ページくらいでやめて、最後のページの記入欄まで一気に飛ばし、そこをしばらく見ていた。それから、ニュースの天気図のほうに少し顔を向けて、半分独り言のように言った。「葬式代だけは残しとくよ、お前らに迷惑かけたくないからな」。声色は冗談めかしていて、語尾が少し上がっていた。
職場の口が動きかけた——私の口は、その瞬間に動きかけた。「葬式代以外も整理しときましょうか、エンディングノートはうちの窓口でも扱ってますよ、それから生前贈与の枠が年間百十万円あって——」。客に対して三分で組み立てる定型が、勝手に喉まで上がってきた。実際、職場では「終活」を商品として説明している。値段表もある。整理サービス一式三万八千円、相続シミュレーション付きで六万二千円。
「うん」——出かかった一連を飲み込んで、「うん」とだけ返した。父はパンフレットを膝の上で閉じ、もう開かなかった。三秒か四秒、私たちは黙った。テレビの天気予報が、明日は西から雨、と小さく言っていた。父はそちらをしばらく見ていた。私は番号札を見ていた。四十二、と書かれた数字が、急に手の中で重くなった。
同じ語、別の温度——「終活」は、職場の口の中では他人の死を扱う客観語として通用している。客が持ってきた紙の上で、相続税の控除額、葬祭費の地域差、永代供養の相場と並んでいる語。その並びの中では、語は冷たくも熱くもない。ただ、父の口で、待合のパンフレットラックの前で出ると、同じ語が別の温度を持つ。辞書的な意味はほぼ同じ。距離で重さが変わる、ということを、私はそこで初めて、自分の中で言葉にした。
整理という侵入——もし私が職場の口で続けていたら、父の冗談を「相続準備の入り口」と読み解いて応答することになる。それは父の冗談を、分析の対象に降格させることだ。父の発話を、客の発話と同じ平面に置くこと。整理という行為が、距離が近すぎる相手に向かうと、整理ではなく侵入に変わる。値段表が手元にあって、それを父に向けて開かないでいることが、今日のこの待合の作法だった。
父はおそらく別の何かを——もう一段下に降りる。父はおそらく「葬式代」と言いながら、本当は別の何かを伝えていた。「もう自分の死を考え始めている」「お前と話したい」「迷惑をかけることを、近頃よく考える」のどれか、あるいは全部。職業の口なら、それを聞き取って助言の入り口にする。家族の口は、聞き取らない振りをする。聞き取らない振りこそが、家族の作法だ、ということに、私は五十三歳になって初めて気づいた。
パンフレットはラックに戻った——番号が四十番に進み、父は立ち上がってパンフレットをラックの元の位置に戻した。きちんと一番上の段の、抜いたのと同じ場所に差した。テレビは天気予報からニュースに変わっていた。父は座り直して、「コーヒー飲むか」と言った。私は「あとで」と返した。「葬式代」という語のあとの、最初のやり取りが、コーヒーの有無だった。
診察のあとで——心臓の数値はだいたい三ヶ月前と同じだった。次回は一月、と先生が言って、薬の処方箋が一枚出た。会計を待つあいだ、私は何も拾わなかった。エンディングノートの話も、生前贈与の枠の話も、葬祭費の地域差の話も、頭の中には全部並んでいたが、口に出さなかった。父はベンチで老眼鏡をかけ直して、薬の説明書を読んでいた。私は職場で売っている整理サービスの値段を、父には適用できない、ということを、その並んだ商品名の隣に書き加えた。心の中の値段表のほうに。
帰り道で——病院を出て、駐車場まで歩く途中、父は天気の話をした。明日の雨と、来週の冷え込みのこと。私は相槌だけ打った。職業の口で言いそうになった一連は、まだ喉のあたりに引っかかっていた。それを職場でなら出せる。父の前では出さない。出さないことを選び続けるのが、これから何年か、たぶん私の仕事のもう一つの面になる、と思った。
家に帰って、私はノートパソコンを開かなかった。Excelを走らせる動作は、今日はしなかった。代わりに、職場の整理サービスのパンフレットを、机の引き出しの一番下にしまった。父に勧める予定はない。引き出しの中で、それは値段表のままだった。
——補記:この第一稿は公開後に辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。3稿を並置しています。